ルール自体がそのありかたを規定しているようなジャンルがある。将棋、俳句、カードゲーム、サッカー、その他たくさん。競歩を走行から区別させるものはそのルールだけである。一般にいう俳句やじゃんけんからルールをとったら何も残らない。囲碁やチェスをそれらたらしめているのはただルールのみであり、碁石や駒はそのルールの慣習的な外在化であって、なければないでいっこうにさしつかえない。現にゲームの進行は対局譜で記述されており、その再現に現実の碁盤などは必要としない。よく知らないのだけどたぶんそうだろう。そのルールの上に価値判断の基準と多様な方法と歴史的蓄積がある。おそらく。ポーカーとブリッジとをわかつのはルールをおいて他にはない。サッカーとは違うルールで競技したかったら他のジャンルに行くしかない。サッカーという枠の中にありながらそれとは別のルールに準拠することは許されない。
つまり、これらのジャンルにあっては、ルールは参加者を支配する規則であるばかりでなく、ジャンルのなんたるかを規定する定義でもある。
そうしたジャンルのプレイヤーと観客にまずもって必要なのは、運動能力でも知能でもなく、ルールに一抹の疑いもさしはさまずに従う能力である。ルールに全幅の信頼を置く、というよりも、ルールは信じるとか疑うとかいう対象ではなく、与えられたものとして引きうけるというだけなのだろう。ボールをタッチされたらアウトであるということを受けいれられない人間は、どれほど運動能力が優れていようと、野球にたずさわる資質を決定的に欠いている。ボールを蹴ったり叩いたりしてボールがかわいそうじゃないですか、と球技への参加を拒否した人がいた。世の中にはスポーツなるものに無縁の人物が確実に存在する。
一方、ルールを破ることで形成されてきた近代芸術というものがあり、ルールに唯々諾々と従う人士はその歴史に参加できない。一時期幅をきかせてその一部をなしたかに見えても、のちのち歴史が編纂されるにあたり登録を抹消されることになっている。それ自体ルールであり、オリジナリティなる規範に従って新しいものを産出するというルールに体よく収まることのできる人々が成功を獲得する。適応性の高い人々は何をやってもうまくいく。ジャズの歴史とは「こんなものはジャズではない」とされたものの歴史であるといえるが、「これは競歩ではない」とされたら端的にそれは競歩ではない。如才のない人々は、ジャズをやるときにはルールをころあいよくずらし、競歩をやる段にあたってはそのルールを遵守する、と器用に態度を使いわける。ところが、とにかくルールに刃向かわずにいられない人々が存在する。概してそうした人々の社会生活適応度は低く、世間に流布されている典型的な芸術家像さながらに破綻している。何しろルールに従うということができないのだ。おそらくそうした人々には競歩のどこがおもしろいのかわからない。ルールを理解していないからわからないというより、ルールを共有することで成り立つジャンル、ルールを守らなければはじまらないジャンルの存在意義がわからない。
写真にもルールはある。f値ISO感度やシャッター速度に代表される運用管理のための指標は守るべきルールである。適正な操作に反すれば写真が写らない。その意味では遵守されるのが望ましいルールである。ただ、それらはひとつの尺度であって、ISO感度という規格の尺度に必ずしも従わなくても、ドイツ規格のDIN感度を指標として採用すればカメラの運用はできる。シャッター速度も昔は倍数系列ではなかった。そういうわけで、それらのルールは使用者を支配しているとはいえない。また写真を定義しているわけでもない。チェスやブリッジにおいてルールはゲームをプログラムしており、それらジャンルの根幹となっている。ここで気づくのは、それらは社会的・文化的・歴史的に規定されるジャンルだということだ。かたやf値ISO感度やシャッター速度、色温度なりホワイトバランス、あるいは135とか120とか4x5などのフィルム規格やらSDとかCFなどの媒体規格やら電池やバスの規格といったものは、写真というメディウム、写真の実体的・技術的・産業的な相における、単なる操作上の仕様である。120フィルム専用のカメラに220フィルムを装填すれば、使って使えないことはないけれども、裏紙がないぶんピントが狂うし、カウンタが反応せずフィルムの長さの半分しか露光できない。本来の使い方ではないだけで、使用者責任で使う限り誰に咎められるものでもない。まして写真からの退場を求められなどしない。場合によってはカメラが壊れるという程度のことである。
だが、ジャンルとしての写真にもルールは厳然と存在しており、それは支配的に作用する。画像内容上の社会的コードもそうだし、ストックフォトやらコンテストといったものでは、提出に際してさまざまな決めごとがあるだろう。そうしたルールに抵触すればペナルティを課されるか受理されない。スポーツのように強制力を持ったルールとして機能する。形式上・内容上のお約束がたえずご破算にされ、そのことで近代芸術としての写真史が形成されてきたのはすでに述べた通りであるが、ジャンルにおけるルールはいずれにしても打破されるものとしてある。
続く。