7時頃、雲は多いのだが夜までの雨によりこの時期には珍しい透明度。日光も鎌倉も晴れているらしい。しかし土曜日でかなりの人出のはず。迷いながら結局二度寝。昼前に起きると上空には雲があるが、神奈川は晴れているらしい。やはり行けばよかったか、と後悔しつつとろとろプリント。八景島レールは上がデフォルメされすぎて天地方向に開ききってしまい、画面天地の輝度差のために奥がかすんでいる。全体露光量と同じ秒数下部を焼き込んでどうにか見えてくるが、空間の変異をワイヤーフレームで示す、というのからは遠い。午後から空が濁ってきて夕方にはいつも通り白くなる。明日もこんな調子だろう。
八景島金のカゴにも上部に反射。しかし上部はネガが薄いのでつぶれてしまってはっきり見えず中途半端。はっきり出るか出ないかどっちかじゃないとなあ。いちばんシャクなのが雲に見えること。これだけ雲が入らないよう尽力しているというのに、もっとも肝心な上部に雲らしきものが写り込んでたら泣くに泣けない。箱の中で生起した出来事として、なんとかうまく出せないものか。ここで思い浮かべているのは山中信夫の太陽。あれは山中信夫独自の技術というわけではなく、ピンホールでカラー感材使って画面内に高輝度の点光源があれば誰がやっても発生する現象であり、山中以前にもやってる人はいたかもしれないのだが、やはりどうしても山中信夫という固有名詞と一緒になって想起されてしまう。
ホルダではなく、箱前面の斜光用フードの反射のせいかもしれない。そこが縦位置のある条件下でどこかの光を拾ってフィルム面に導く、と。そうなると対策したくなるが、ずっとこんなことはなかったのに最近発生するようになったのはなぜだろう。それとも気がつかなかっただけだろうか。この切り分けは重要。場合によってはまたひとつアイディアに結実するかも。
いつもの定義。一般に写真とは結像の再現である。結像が光学的プロセスの結果にほぼ相当する。再現は受光体以降である。結像とは元来光学的な出来事であり、凸レンズ状の氷などで見いだされたまったくの偶然事だったわけだ。それがきわめて巧妙に制御されるようになることで現在の高忠実度の画像をもたらしているが、それもちょっとしたことで、レンズに水滴やクモリや傷がつくとか、レンズユニットの光軸がずれるとかごくわずかなことで忠実度が崩れてしまい、精妙な技術に支えられてはいるものの単純な現象であるという事実が露呈する。そのような、結像という光学的な出来事について写真を通じて考え抜くことが、再現というものを問うこととならんで課題となる。
引き伸ばし工程には、引き伸ばしレンズによって結像させるという光学的プロセスの機会が今一度与えられる。再現であるフィルムがさらなる光学系の寄与を経てもう一度再現されるという、結像と再現の往還運動がある。画面外周の黒フチや光路中の迷光による効果はそのひとつの現れである。だからこそ、光学的な出来事を生起させる上では、銀塩やそれ以外のウェットプロセスであるかどうかはどうでもいいが、光学的引き伸ばしでなければならない。