写真は「時間を写す」か

長時間露光の写真をめぐりしばしば語られるのが「時間が写っている」などという常套句。ピンホール写真、夜景、古典印画法などの撮影技法が用いられるたびに、この手の紋切り型が繰り返される。しかし、長くシャッターを開けていれば時間が写し込まれるなどという単純な話なのだろうか。
古典印画法で人物ポートレイトを撮影する場合に10分の露光がかかったとして、その間対象となる人物はなるべく動かないようじっとしてはいるのだが、一般に数分もの間身じろぎまばたきひとつしないでいるのは難しいから、どうしてもぶれてしまう。でも露光が1分だったとしてもやはりぶれてしまう。その場合に10分で撮影された写真は1分の10倍の時間を写し込んでいるというのだろうか。訓練を受けた人の10分は、落ち着きがない人の1分よりもずっと静止状態に近く写っているかもしれない。それでも10分の露光はより多くの時間を写すのだろうか。それは1秒の600倍、1/1000秒の60万倍なのだろうか。露光時間は計算の通りである。だが、長時間露光で写真に写ると称される「時間」とはいったいなんなのか。そうではない、露出時間が長くなると時間の性質が変わる、ということだとしたら、いったいどこがその境目なのか。どこから「時間が写る」ことになるのか。
日頃1分とか2分とか、暗ければそれ以上の露光を行っているが、こないだひさびさに行なった1/8秒の撮影とくらべてとりたてて異質なことをしているとは思えない。長時間露光によって画面内に時間的要素が反映されるなど考えたこともない。また前にも書いた通り、建築写真ではNDフィルターを入れてわざと光量を減らし、1分以上の露光にして歩行者を飛ばす。しかし仕上がりを見て、そこに動くものがなければ1分の時間が写っているなどと判別できる要素はない。たとえば、古典印画法で晴天下のそこらの街中に向けて数十分の露光を与えたとする。適当な距離をとって、画面の端から端までを露光時間いっぱいかけてゆっくりと人が歩いていったら、そのあとがかすかに露光されるだろう。では同じ時間かけて1往復したらどうか。より漠然と写っている状態になるだろう。2往復ならさらにうっすらと写るだけ、10往復ならぼやっとした白っぽいかたまりのように見えるだけ、100往復ではほとんど何も見えず、1000往復では人が通った形跡などもはやまったく認められない、実際の回数とのかねあいは実験しなければわからないが、おおむねそのような事態が起こるだろう。2回の移動と2000回の移動とで、その時間中その画面で撮影されている範囲内にその人がいたということはまったく変わりないにもかかわらず、である。ところが、画面内で動くのがレールの上を走るトロッコだったとするなら、往復ともまったく同じ軌道上を動いていれば、100往復であってもぼんやりと記録されているかもしれない。1000往復では露光の閾域下かもしれない。そのように、画面上に形をとどめるかどうかは条件次第なのである。
そこに写っているのは時間ではなく、対象の運動ないしは変化である。それはおよそとらえどころのない形而上学的時間などではなく、計測可能な物理的時間の尺度上で観察される現象である。画面内の運動や変化が露光条件とうまくかみあっていれば、画面内に露光時間中の運動の軌跡として、あるいは変化の過程として記録される。露光条件に合わなければ運動なり変化としては写らずに静止した状態と同様に写るか、まったく写らない。
画面の中に変化がなければ、写真を見る限りは、露光に要した時間の長短など見わけがつかない。スタジオで石を撮影したとして、1/500秒で撮影した写真と、数分かけて撮影したのとで、照明などの条件が時間に応じて調整され、相反則がなりたっていて階調再現に差がなければ、結果としての写真を見る限り判別不能なのであり、それらは同等であると見なしてよい。ところが石でなく生身の人間を撮影したならば、写真から長時間露光だと見てとれる。ここで石と人の間の違いとはなんなのか。時間の質が違うとでもいうのか。そんな内輪向けの議論はわれわれにはまったく理解しがたい。それらの違いとは、単純に、対象が動くかどうか、変化があるかどうかだけである。長時間露光であることが示されるのは、対象の変化という画面内の特徴を通じてのみなのであり、われわれはそこで直接に時間を知覚できるわけではないのである。
写真における時間とは何か。写真の露光は、光量と露光時間と受光体感度の関数である適正露出を、受光体に対して与えることで成立する。いまだにマニュアル操作のフィルム一眼レフカメラが写真教育課程において最適であるとされるのは、このことを体得できるからである。個々の写真撮影の場面において時間とは、露光量を調整するためのパラメータのひとつであるシャッター速度という一因子としてしか現れない。それはつねに客観的な基準の元で数量化でき、また数量化によってしか意味をなさないような時間である。それは光量との積から露光量を算出するための数値にすぎない。明るさが半分になったら露光時間を倍にすればいい。そのことで露光量は一定に保たれる。写真において時間とは、まずもって露光量を決定するためのパラメータであり、それは絞りや感度といった他のパラメータと換算可能な、単なる露光量の指標なのである。受光体の感度が低く、光量が少なければ露光時間を長くするし、受光体が高感度で光が充分に与えられていれば露光時間を切りつめる。それだけのことであり、それらの間に、ぶれるとかいった画面効果以上の差はない。
露光が複数回にわたればその間の時間の経過がある。だから複数の写真が並べられれば時間が経っていると考えることになっている。しかしながら果たしてそれはつねに正しいのだろうか。同一人物の2枚の写真があり、正面と側面とから平坦な背景で写されていたとする。それは正面から撮影してからその人物が横を向いたのかもしれないし、その逆かもしれない。あるいは、人物はそのままで、撮影者のほうが移動したのかもしれない。いずれにしろ、2枚の写真の間にはタイムラグがある。ところが、正面からと側面から、別のカメラでまったく同時に撮影したという可能性だってあるのだ。その人物の表情が同じなら、その2枚の間に時間のずれがあるのかどうかを見きわめるのは困難だろう。複数の写真の間に時間の経過を見てとるというのは、付帯して与えられた情報や常識を勘案してわれわれがそう受けとっているだけなのであり、その判断が正しいかどうかの確証が写真から得られるとは限らない。
そうした複数の写真が一枚の画像に集められる場合がある。多重露光である。一枚の画像の中で同一人物が動いていたら、複数の露光の間には時間の経過があると認めるのが自然であろう。しかしそれはわれわれがそこに写っている現象の変化から事後的に構成しているだけである。そこでも、われわれが写真から見てとれるのは対象の変化のみであって、時間ではない。対象がその2回の露光の間に動くか変化していれば時間の経過を見てとれるが、対象の状態が同じで、撮影条件も一定であれば、何回露光されていようとわれわれはその時間の経過を追認できない。固定したカメラで石を多重露光した場合を考えてみればよい。
動きのある映像は一般に時間とわかちがたく結びついていると考えられる。映画や映像における時間についての思弁的な議論に立ちいるつもりはない。ただ確実に言えるのは、映像や映画は見るにあたりわれわれを一定の物理的時間にわたって否応なく拘束する。写真でもスライドショウなどの提示形式であればそのような時間に基づいたものとなる。その限りでは写真が時間の限定をともなって与えられることはある。しかしそれは静止画像の画像内容とはかかわりがない。映像を見る際、伸縮や前後はあるとはいえ一般に撮影時の時間の反映として知覚される。しかし写真には、撮影時点での時間が提示された画像に反映されるということはない。繰り返しになるが、写真に見てとれるのは運動か変化であり、時間は直接に知覚されない。写真を見てその画像内容のみから時間の経過を知覚することはできない。ただ、条件によっては対象の変化が画像に見てとれることがあり、その変化の状態から時間の経過が示唆されることもありうるというだけでしかない。写真に時間という要素はない。考えてみれば当然のことだ。時間軸をもたない静止画像なのだから。少なくとも写真のみを見る限りではそうであり、写真というメディウムはそうした特性を備えている。
ただし、写真外の要素から、つまり写真に付された説明などからそうした情報が与えられることはあり、それが写真に写された内容とあいまって独自の効果をもたらすことはありうる。複数の写真の間に時間の経過を読み取り、想像力を働かせて写真の間に意味を補間することを促すかのように提示される写真群もある。たとえば山崎博が80年ごろ制作した歩行のシリーズなど。それは鑑賞対象としての写真というジャンルにあって、写真というメディウムの有用な使い方となることもあるだろう。だがそれは、われわれの側が複数の画像に解釈を施し、その間の推移を復元しているから可能となるのであって、画像内容は時間とは直接関係してはいない。とはいえ、そのような解釈に訴える制作物の構成要素となり、見るものによる時間の推移やそれにともなう物語の構成に寄与するのも写真の機能のひとつである。
写真が現実の対象を再現する際、時間と並んで捨象される、知覚形式の構成要素がもう一つある。三次元空間における奥行きである。写真に奥行きはない。ぺらぺらの平面である。しかし奥行きのある対象が撮影されていれば、われわれは一般にその奥行きを写真から知覚する。そこにないはずの三次元のもう一つの軸を、高度な意識作用を介することなくごく自然に見てとることができる。でなければ風景写真など成立しない。両眼視差による遠近感がなくても、線遠近法によって奥行き把握は充分に達成される。それは、だまし絵とかエッシャーの版画にとまどうことからもうかがえる。われわれはそれらを見て遠近法の破綻が発生していると了解するが、それでも解決しないおさまりの悪さは、知覚の層で遠近法的奥行きが処理されていることを示している。これを、写真が奥行きを写すということである、と理解する。ところが、そのように写真が時間を写すと考えるには無理がある。長時間露光の写真にせよ、複数画像の間の差異にせよ、与えられた条件から推論を経て時間の経過があるものと判断しているにすぎない。瞬時に、そこに時間の経過が写っていると知覚できる場合というのは想定できない。時間の経過を推論する上での判断材料となりうる断片的要素が認められることもあるという程度にとどまる。
また、味もにおいも写真で再現されないし、音も写真に写らない、と断定してまったくさしつかえなかろう。いや、「うまい写真」はものの味わいをあたかも現実に味わっているかのように伝えてくれる、と主張する向きもあるかもしれない。写真に見てとれる牛肉によって味覚的体験の記憶が喚起されて牛肉を味わったつもりになれる人の存在は否定できない。あるいは絵柄から音を想像できる場合もないとはいえない。見る側の再構成によってそのような事態も起こりうるという点で、ある一枚の写真に時間が認められるという主張と事情は同一である。そしてまた、そのように写真によって呼び覚まされる味や音の内容が多くの人の間で共通であるという保証がどこにもないのと同様に、写真が喚起する時間の内実が他人と一致するとも考えにくい。どちらも、人によってはそのように受け取ることもできるというだけである。味や音が写真に写るという主張がきわめて疑わしいのと同程度に、写真が時間を再現可能であると考えられる余地は乏しい。
複数の写真の間に時間の流れを認めるのは、個別の写真のみを注視するのではなく、複数の写真に関連や変化を見いだす、いうなれば間違い探しゲームのような反省的意識作用によるものである。そのようにして実現される、写真における時間の演出は、不特定の鑑賞者にある程度共有可能であろう。複数の写真の提示によって固有の時間の推移を惹起する例はある。もっとも、それを共有するためにはそのジャンル特有の鑑賞のルールをわきまえている必要があり、複雑な意識作用を経ている以上、時間が写真に写っているとは認められないのであるが。あるいは、時間の経過が付帯的文字情報で知らされることで、そうした観点で興味深く見ることができるような鑑賞対象としての写真もある。ただし、その場合に写真が時間の経過を自律的に伝達しているわけでないのは明白である。
ある人はある単一の写真に時間の経過を感じるかもしれない。それは数値化可能な物理的時間とはあいいれない何かである。それが無意味だとはいえないし、人によってはそこになんらかの価値を認めるのかもしれない。心的状態に応じて伸び縮みする主観的時間の投影を見る人もあろう。人がそれぞれにそのような体験を個人的な受容体験として表明するのを咎め立てできる理由などない。しかし、そのような個人的感興を、さも一般的に成立するものであるかのように言挙げされたりすると困ってしまう。それは誰にでも誤解の余地なく明瞭に理解可能でなどない、極私的な解釈の押しつけにすぎないのである。時間の結晶などといわれると、詩的で空想的で何かが伝えられたような気もしなくもないが、考えてみるとまるで意味不明だ。長時間露光された一枚の写真を指して時間の沈殿やら凝縮などとする形容にはまったく合理的な裏づけがなく、意味内容を厳密に吟味する限り無内容といわざるをえない。それはこの文脈におけるもっとも悪い意味での文学的な言辞であり、皮相な印象批評の悪弊にすぎない、そのようにみなしてよいであろう。