モノクロである理由

うー現実逃避。
ここでも示唆したインクジェットプリンタによる銀塩写真のトレースへの疑問につながる見解を発見。いつも思っていることだがなかなかこういう論調を見かけない。
デジタル画像出力機器でなされているのは、今のところほぼすべて銀塩のモドキにすぎないと思う。何かあるのだろうか、デジタル処理でまったくオリジナルの手法が。知る限り銀塩時代には高度なマスクワークを使ったりたいへんな手間をかけて実現させてきたような結果を手軽に効率よく高品質に行えるようになったというだけで、デジタル処理によって初めて可能になった効果というのはほとんど思い当たらない。HDR合成画像は銀塩ではちょっとつくりようのない画を出せるけれど、あれは元はといえば輝度再現域の狭いデジタルカメラ画像で輝度差の大きい対象を再現するためのものだろうから、ネガフィルムを使えばもっと自然な階調の高ダイナミックレンジの画像が一発で得られる。HDRを使ってその逆の「不自然な」階調再現の画像を猫も杓子もつくってるわけだけど、ぱっと見おもしろいが、あんなのは昔からPhotoshopにごちゃごちゃくっついてくるくだらないフィルタと一緒で、たちまち飽きる。流行に乗っかる人というのはいつでもどこにでもいるというだけのことである。
新しい画像再現システムが確立されたならば、新しい再現の様式をあみだせばいいのだ。過去の再現原理の模倣をしてばかりでどうする。でも現実には模倣ばかり。模倣といって悪ければ追従。デジタルアウトプットによるモノクロ調画像はその典型。モノクロ写真とは白黒だけだったわけではない。青い色のサイアノタイプもあれば緑や赤のピグメント印画もあった。ぴかぴかのダゲレオタイプもあった。モノクロ印画紙でありながら化学変化を生じさせて「墨に百彩あり」のごとき変幻自在の色彩を生み出し、さらには銀浮きを意図的に発生させ、もはや印画紙の発色を超えてしまう、大塚勉の比類のない仕事もある。でもデジタルプリンタによるモノクロモドキでは、ざっと見たところ純黒調シルバーゼラチンプリントか、せいぜい温黒調人像紙あたりをなぞるだけ。なぜ、白青や白緑など豊かな多様性があるにもかかわらず、どれもこれも白黒ばかりなのか。貧困といわざるを得ない。写真史についての無知を責めているのではない。サイアノタイプをまねすればいいという話でもない。現状とは違う未知の可能性を追求しようとせず、見知っている範囲内のパクリに終始していることを非難しているのである。
だいたい、なぜモノクロなのか。世のモノクロ者はこの問いを考え抜いたことがあるのだろうか。モノクロなら自分で全工程をできるから、などと御高説なさるアーティストのセンセイも含めてだ。今どき銀塩のカラーだって同程度に自分で全部できるのだ。保存性が高いからだなんていいわけにしか聞こえない。
モノクロ画像というのは特殊である。このことは認めざるを得ない。われわれが一般に知覚している視覚経験とは明らかに違うのであるから。低照度下では、色覚細胞のうち明度のみに反応する桿状体からの感覚情報に依存するので、単色画像に近く見えることになる。また、以前に書いた気もするが、むかし大酒飲んだ翌日に目が覚めたら見えるものがオレンジ一色で、俺はもうおしまいかと思ったことがある。しばらくすると世界の色が蘇ってきた。あれは稀有の体験ではあった。だが、いずれも特殊な条件である。日常的には視覚に色は必ず付随する。むしろ視覚は色によってなりたっている。長く盲目であった人が手術によって視覚を取り戻し、包帯を解いて目を見開いたとき、整序されない色の要素が目に飛び込んでくる、といった報告がよくある。つまり、われわれの視覚にとって、形以前に色なのである。色はまずもって感覚に訴えかけ、形はしかる後に知覚的に構成される。
なぜモノクロという特殊な様式をあえて使うのか。その問いかけに耐えうる写真は、実のところ滅多にないと思う。それはデジタル画像に限らない。銀塩でもそうである。むしろすでにできあがった制度への依存を無反省に引きずっている旧態依然の銀塩写真のほうが、安易にモノクロを使っている例が目立つ。モノクロでなければならなかった、と納得させる写真というのは稀である。昔の写真にはそんな理由は必要なかった。モノクロ感材を使うしかなかったからだ。でも、カラーが当たり前な現状で、なおもあえてモノクロという特殊な様式である必要に迫られてモノクロを使っている人は少ない。
たとえば松井寛泰の写真は、モノクロでなければならなかったという理由を、見ただけで充分に納得させる。説明の必要はまったくない。モノクロのスナップは誰かの模倣であったり雰囲気でやっているのが大半だと思うが、関口正夫といったごく限られた人は、モノクロでやる以外ないのだと認めるしかないし、それどころかこんな若輩者が軽口叩けないような重みがある。報道系のモノクロはいまだに多いが、現実を伝達しようとするならカラーにすりゃいいだろうという素朴な疑問を禁じえず、ネタとして時事的題材を用いながらも、モノクロとすることで「アート系の」写真の文脈に乗っかろうとする浅薄さが見えるばかりである。有名どころではセバスティアン・サルガドあたりだが、時事的題材を扱いながら今どきモノクロを使って、かつての報道写真黄金期の写真の様式を再現した、ある種のカリカチュアとして見ることができる、ということ以外に何ら価値を見いだせない。
だが、そうした思慮を欠いたモノクロ写真であっても、かろうじてモノクロである根拠は保証されているのである、彼らがモノクロ感材を使っている限りは。モノクロフィルムを使い、モノクロ印画紙に焼いているのであれば、カラーにできるわけがない。モノクロでもしょうがないよね、と放免される。なぜモノクロ感材を採用したのか、という疑問はもちろん湧く。だが、モノクロ感材という物性が、眼前の画像がモノクロであることへの逆らいがたい根拠を与えてくるのである。
カラー機流用のデジタルアウトプットではそれもない。まあモノクロバライタ紙に焼けるレーザー露光デジタルプリンタもあるらしいが、そうまでして何で、というだけのこと。所詮モドキ。そのメディウムでしかできない結果が提示されているなら認めるが、それもなくただ従来工程が実現していた範疇で代替としての品質を競っているばかり。あるギャラリーで、プレートに「Pigment Print」とかいう媒体表記の展示がなされていた。ラフ目の紙のモノクロ。古典印画法なのかと思ったら、Epsonの顔料インクジェットプリンタによるプリントとのことだった。顔料だから「Pigment」というつもりなのだろうが、あたかも歴史的な手法であるかのごとくに偽装した権威づけだったわけだ。写真の内容も、よく覚えていないがアメリカ西海岸様式をなぞった創意のない風景写真だった。中身のないものほど既存の権威にすがりたがる。それは、デジタル化の反動としての古典印画法も同様である。品質を語るなら、成熟したあたりまえの銀塩感材を安定して使いこなす人の仕事が最高だと思うし、むろんわれわれはその域には到底及びもつかない。だが、クオリティ云々は重要な問題ではない。写真の形式面を支えるメディウムというものを自覚的に引きうけているのかどうかが問題なのである
この逆風の中、わざわざ手間暇かけて銀塩モノクロ写真をやろうという人は、やはりそれなりの覚悟があってやっているものだし、メディウムについて自覚的な人がわりあい多いと思う。雰囲気で始める人も多いが、そうは続かない。ただ、モノクロネガで撮影してインクジェット出力、という人もいるしひとくくりにはできないのだが。デジタルならではの画が出てこないのは、銀塩ですでに写真技術が完成されていて、およそ静止画像に関して人間が思いつくことのできるあらゆる発想が、とうに出つくしてしまっていたから、ということなのだろうか。であるならば汎用技術としては写真は頭打ちということになるのだが……。