回想とか記憶とか

先月父が他界した。そのこと自体は写真とはなんの関係もないのでここで述べるべきことはない。ただ、古い写真が出てきた。たいていは父が撮影したと思われるもので、まったく知らなかったがなかなかうまい。ほとんど見たことのなかった自分の幼時の写真や若かった母の写真があり、こんな悪たれ者でも人並みに感傷にふけったりもするが、写真を見てそういった感情が喚起されるのは、写真がきっかけとなって往時のことが思い出されるからであって、当然ながら写真に記憶やら感情が写っていたりそれを残す機能があるからではない。そして、何かがトリガーとなって回想を呼び出すというのは、たとえば鰹節削り器によってもまったく同じアクションが果たされうる。写真と何ら変わるところはない。むしろ、記憶と結びつく機会の多かった品物なら、写真よりもはるかに多くを思い出させるだろう。
遺品はそれに関係していた当事者にとってしか回想のトリガーとはならないが、写真は第三者にとってもなんらかの感慨を与える、という反論があるかもしれない。そんなことはない。いわくありげな古道具を並べて「記憶」やら「死」やらっぽい雰囲気を演出する展示はうんざりするほど見せられてきた常套手段である。
写真が回想を召喚することはある。そうした回想は、当事者にとってはたいせつなものに違いない。しかし回想を呼びさますのは何も写真固有の機能ではなく、あらゆるものがそうした媒介者となりうるし、そうしたもろもろのものにかこつけて追憶を再生しようとする、われわれの側に付与された機能といったほうがいい。過去の写真が、過去のできごとにゆかりの品とは違う働きを見せるとすれば、われわれが知りもしなかったこと、あとから写真を通じて知ったことを、さももともと憶えていたかのように思いこんでしまう契機になるという点だろう。だが、それにしても、周囲の関係者からの伝聞が同じ役割を果たすことがあり、写真にしかない機能とは考えにくく、これもやはりわれわれの側の機能であって、写真は単なるトリガーに過ぎないと考えたほうが説明に無理がない。われわれのそうした機能に訴える写真の使いかたは時に有効であり、そのような鑑賞対象としての写真があってもいいだろうとは思う。しかし、メディウムとして写真を考えるにあたって、回想さらには記憶という機制は付随的な問題でしかない。