さらに記憶について

過去の写真はゆかりの品物よりも第三者にとって豊かな情報を与える、なぜならそこに人の姿とふるまいが写されているから、との主張に対しては、次のようにも言える。感情を喚起するのは写真や品物にあてがわれた文脈のほうであり、写真や品物に縁のあった者であれば過去のできごとの文脈に沿った思いを抱くし、直接関係なかった人なら相応の物語をあてはめてうけとめる。写真や品物はそうした文脈を導くとっかかりに過ぎず、それ自体として感情を喚起する能力を備えているわけではない。
写真において記憶が問題となるのは、一連の写真を順次見ていくことでなんらかの物語が醸成されるように構成されており、そうした文脈に従って個別の写真を見るようにしつらえられた写真群の場合である。それぞれの写真は他の写真との関係から意味を与えられるが、そこで他の写真を憶えていないことには、意図された文脈で写真を見ることができなくなる。そこでは、映画を見る上で記憶が問題になるように、短周期の記憶が前提されている。
ところが、もともと揮発性メモリでできあがっているのか、記憶保持能力がきわめて低い上に、あてがわれた文脈にとらわれずに個別の写真を見ることを長いあいだ意識的にみずからに課してきているので、そのように記憶に基づいて写真の流れを見るという習慣がない。そのような立場からすれば、写真を流れで見せるという提示様式を否定するつもりはさらさらないが、それは展示なり写真集といった特殊な条件でのみ成立する写真のありかたであって、そのように写真を見る訓練を受けた一部の受容者の間でしか共有されない、ジャンルに依存した写真のありようであると考えられる。より広汎な写真というメディウムの問題圏にあっては、記憶とはやはり付随的な問題にとどまるのである。