スポッティング(1) 染料

以前もらったKodak liquid retouching colorをようやくテスト。なお、スポッティングというのは、ネガの傷やホコリの跡などがプリントに出てしまった部分を手で消す作業のこと。
Cyan、Magenta、Yellow、Red、Green、Blueの基本6色に、Neutral、Orange、Brownを加えた計9本セット。Brownはモノクロ用として、Orangeはなんだろう。Kodakのコーポレートカラーだから入れたのか。でもPX-G5300にもオレンジインクがある。かけあわせでは彩度が出しにくい色なのか。
Blueが特に減っているようだが、これをくれた人も主に風景を撮影していたからだろうか。でも、通常の使いかたではちょっとやそっとでは減りそうもない。写真学校で教えているある人は、モノクロ用のSpotoneは一生かかっても使い切れないと語っていた。そうだろう。1/2oz、約15ml。かたやKodak liquid retouching colorは59ml。4倍。もともと少なかった可能性もなくはないが、別の人に分けたのかもしれない。
ふたがスポイトになっていて、一滴ずつパレットなどに垂らして薄め、混ぜて目的の色を出す。ボトルに直接筆をつっこむのは御法度。しかしわがことながら気を抜くとやりかねない。以前Worksで染料を塗ったシートを作ってもらったが、たぶんこれを紙に一滴ずつ垂らしたのだろう。2005年のグループ展でしきりに使った。
0000の筆が見つからず、ずいぶん前にたぶん神田文房堂で買ったナムラ大成堂の白桂で、印画紙に原液のまま塗ってみる。富士AG。光沢紙の場合、薄ければ光沢もあまり変わらず、ほとんど目につかない。乳剤に含浸している様子。濃い部分をよくよく見ればわずかに盛り上がっているのがわかる。ただ原液で厚く塗ると反射の色が変わる。
それにしても、LPLのスポッティングカラーだったか、プラ板の裏に塗ったのが3枚セットになってるようなのでRCペーパーにスポッティングしたのは、その部分だけ光沢がないので反射させると遠目からでもわかってしまい、かえって修整の後が目立ってしまうけれど、それにくらべればだいぶまし。
ネガで白く抜けた部分の修整法として、モノクロでもカラーでも、プリントに黒く出た部分の乳剤をエッチングナイフやカミソリの刃を折った先で薄く削りとるというものもある。これはスポッティングに関する記述ではたいてい言及されているものの、その部分の光沢が変わるとして推奨されていないことがほとんど。アダムズの『The Print』では、この用途には手術用のメスが適しているとされ、削った部分が薄ければ、その後もう一度水洗乾燥すると光沢が戻るとある。またハンカチで強くこすると戻るともいう。いずれもゼラチンを膨潤させるのだろう。また、プリント上の黒いキズを減力して薄くするという超高難度の技も紹介されている。いずれにせよモノクロプリントのみ、そしてとても実行する気が起きない荒技である。
ネガにも使えると思っていたのだが、説明書ではプリントについての記述が主体。ポジやネガについては15年前にはブックレットがあったらしいが、今はどうだろう、と思いつつKodakのwebページに行ったらちゃんとPDFで配布されている。さすがだ。すばらしい。と書いて、どうやら在庫限りで終了らしい様子で全然すばらしくなんかないと思ったものの、でもまあ無理もないよな。カラーネガについての記述もしっかりある。1998年9月、つまり丸10年前の「The Latest Information about Retouching」。これによるとネガのレタッチでもKodak liquid retouching colorかFaber Castelあたりの色鉛筆を使う。Kodak製のブローニー以上のネガフィルムならベース面側にレタッチできるとのこと。カラーネガはRed5滴にYellow1滴を1:3とか1:10に希釈したのと、Cyanを1:5とか1:20に希釈したのの2種類ですむという。プリント時のフィルター調整は通常マゼンタと黄だけで行うので理屈はわからんでもないが、ほんとだろうか。
なるほど、そうやっていちいち希釈して使ってたらモノクロ用よりもすぐになくなるかもしれない。でも、これの前所有者と違ってまったくいい加減なので、そんな水滴の数をいちいち勘定するなんてまずやらないだろう。目分量で適当にうめる。その結果染料の消費量も抑えられる。
ピンホールはネガ上で不透明黒で埋めてプリントをレタッチせよとある。まあそれが常道なんだが、なんとかネガで完結させてプリントには極力手を加えずにすませたい。そうすれば光沢が変わる問題も出ない。でもこの実力じゃ無理かもしれない。
黄ばんだ歯はごく薄くしたYellowを微量使い、目のクマはCyan、赤ら顔にはRed-Yellow。オレンジマスクがあるので、色あわせはカラープリントのレタッチ以上に至難。残念ながら、確実に廃れていく技術であると認めざるを得ない。営業写真館の人が昔は腕を競ったのだろうが、これを現役でやっている人は日本にはほとんどいないんじゃなかろうか。だから、生産終了も無理はない。
これを積極的に使おうという人がまだいるとすれば、モノクロプリントの手彩色用途だろう。Marshall Retouching Colorは、色の理論に基づき減法混色のCMYと加法混色のRGBそれぞれの三原色が用意されたKodakと違って、Yellow、Red、BlueのPrimary3色とFlesh、Green、Brown、Black、BlueのBasic5色で構成されており、混合して求める色を出すという目的よりも、それ自体がきれいな色、そのまま使える色が用意されているではないかと考えられる。それは手彩色という需要に合わせてのことではないか。
そういえばKodakロゴタイプが変わっていた。
ひさびさに引っぱり出した写真工業出版社の『暗室百科』平成元年6月第4版の広告では、フジカラー販売がかつて販売していたカラー修整インクはYMCの3色で各7ccとのこと。また、ダヴィッド社刊脇リギオ著『新版 写真技術ハンドブック』1992年6月発行第9版によれば、カラー用の染料系修整液としては、コダックのレタッチングカラー(9色)と富士の3色の他に、近代インターナショナル扱いのペペオのミニキット(3色)とダイアポカラー(7色)があったという。『[新版]カメラマン手帳』朝日新聞社、1992年3月第1刷ではCJフォトダイ・キット2,000円7色、ダイアポカラー45ml2,800円、カラースターティングキット6,400円、CJフォトダイ・キットA/B7,800円となっている。フジカラー販売のカラー修整インクについては記載がない。この時点で510ページの機材リストのうちのわずか1ページ強。当時でもすでに写真の諸工程のなかで修整は特殊で重要度が低い技術であったことをうかがわせる。
WorksのIさんのスポッティング技術は高く、どこにスポッティングされたのかぱっと見にはほとんどわからない仕上げをする。もともと目が利いて手が器用な上に、プリンターとして焼いたプリントのスポッティングをしたり、レンタル暗室の客のスポッティングをしてくれたりして、練度が高いからだろう。このスキルは訓練次第だと思う。そこらのラボによるプリントのスポッティングは、カラープリントであっても黒でごまかしてあることが多いが、ちゃんとカラーダイを使う。その彼女が言うには、写真のスポッティングとレタッチングとは違う。銀塩写真のレタッチというのはおそらく近代的な銀塩写真加工工程でももっとも難度の高い作業であり、われわれごときが短期間でちょちょいと習得できるような生易しい技術ではない。今試みようとしているのはスポッティング、印画面上のホコリを消すだけであり、プリントについてはモノクロである程度やっているのでどうにかなるとの目星はつくが、ネガはできるかどうかわからない。手に負えないと投げ出す可能性も充分にある。
これは写真に工芸的要素を保たせようという退嬰的作業なのだろうか。しかし、工芸的完成度とは、木工であれ彫金であれ、技術の見事さを誇るものである。ところがこのスポッティングという作業は、いかに瑕疵を目立たなくし隠すかという目的で行われるのであり、どんなに技術的水準が高くても、決して自慢できるようなものではない。スポッティングをしなければならないというのは、撮影時やプリント時にホコリや傷がついてしまったからであって、そもそも技術的水準が充分高ければ起こらないはずの問題だからである……とはいえ現実に防ぐのはきわめて困難だが。
スポッティングとは、ネガについたホコリ、傷をいかに隠蔽するかという格闘であり、いわば近代写真技術に最後まで残存していた、写真のマテリアルとしての面が露呈する局面を抑え込むための工程とも考えられる。同時に、近代写真技術が克服してきた特権的な手業への依存が、どうにも排除しきれずに残ってしまった工程ともいえる。さらには、染料を含ませた筆で描くという、写真技術が追い抜いたはずの絵画に従属するメチエの呪縛から、ついぞ近代写真技術は逃れられなかったということでもある。だからこそ、この技術体系をわがものとする上で、どうしても避けては通れない工程である。