予報は午前中晴れ。5時頃、もやっているがはっきりした雲はない。これは行かずばなるまいて。5時半に出発するも欲を出して変なことをやろうと遺品の特大の旅行用キャリーカートを転がしていったらやたら時間がかかってしまう。ここは不本意でもタクシーを使うべきだったか。こうやって世間に巻かれていくのか。途中で寝ぼけていたのか乗り換えを間違えるしもうさんざん。川崎で降りたら空は一面の巻層雲。とにかく現地に行ってみると、6時45分頃だったと思うがすでに遅すぎ。雲は消えそうもないし眠いしでひきかえす。8時過ぎ帰って爆睡し、ライブカムを見てみたら名古屋はずっと晴れていたらしい。行くべきだったか。後悔の種は尽きない。
スポッティングの件、困り果てて写真修整のプロにメールで尋ねる。修整はやっぱりベース面からとのこと。そりゃそうだよなあ。乳剤面じゃ乳剤がはがれちゃう。結構太い針を使っていたとのことで、研いで細くしたためにバリが立たず光の透過を遮れていないのではないか。それは気がつかなかった。でも針のスポット修整では濃度に限界があり、プリント上で真っ白にまでは持っていけないという。そうしたければ鉛筆修整だが、プリントでの再修正がたいへんとのこと。それよりネガにニスを塗るのが気になる。ニスを塗布しないと鉛筆のカーボンが定着しない。しかしそのニスがまた新たなホコリを呼び寄せかねず、とんでもない無間地獄に陥りそうな心境になる。
ホコリとの格闘。いくらレンズや受光体で再現の高忠実度を実現しても、このホコリ一個でわやになる。映像関係でいうところのカメラ目線とかいうのと一緒で、せっかく営々と築き上げた虚構の体系が、わずかホコリ一個で突き崩され、フィルムなり撮像素子なり印画紙なりといった物質を介した絵空事であると発覚してしまう。
だが、それを糊塗すべきなのだろうか。昔の写真はホコリだらけで周辺光量低下やら露光ムラやら汚れやカビや原板の割れやらさまざまなノイズにさらされているけれど、それでも人はそこに現実の再現を見てとるし、またそうしたノイズにおもしろみがある。ホコリは、写真が物質を介することで成立しており、写真が物質に根ざしていること、写真とはあれやこれやの得体の知れない思い描きである以前に、まずもって印画紙やらフィルムやら撮像素子という現実そのものである、という事態を露呈してくれる。それはいわば写真というメディウムの顕現というべき契機であるのに、これをわざわざ塗りつぶしてしまうことが、メディウムとしての写真を云々しているわれわれのなすべき所行なのだろうか。
その問いに対する明晰な回答とはいえないが、メディウムとしての写真の現れは、光学的な出来事として起こってほしいということなのだろう。だから箱やフィルムホルダの乱反射は苦にならない。ところがホコリはそうした光学的出来事から目をそらしてしまうという意味で、夾雑物と感じられてしまうのだろう。見た目もよろしくない。光の現象を望んでいるのであって、それをさえぎるだけのホコリはただの邪魔者と思っている、そういうことのように思える。
荷物が到着。ゆるい梱包で不安になるが、開けてみるときっちり緩衝材が入っている。Manfrottoのプレートも説明が曖昧でほんとにちゃんとしたのが来るのか疑問だったのだが、問題なく装着できた。他の小物も、発送メールでワット数が違っていたり不安だったが注文したものが来ている様子。印画紙はこれから。
あとはスポッティングしてプリントしてさらにスポッティングするだけ。しかしこんな時に限って、日頃はほとんど鳴らない電話が鳴りまくる。世の中全体で俺に嫌がらせをしているのか。「写真展」を破壊しようとの陰謀か。でも明日も晴れるんでたぶんまた撮影に行っちゃうんだろう。