昨日の続き。
10年くらい前に、デジタル写真には物質性がないなどと一部で声高に主張されていたが、あの話はその後どうなったのだろうか。
デジタルだろうとなんだろうと、われわれがこの目を通して見る必要があるものならば、物体の支えなくして成り立ちえない。入力系は無視して出力に絞っても、デジタル画像を見るにはディスプレイというような現実のデバイスが抜きがたく介在する。今メインで使っているナナオの液晶ディスプレイはパネル表面にアンチグレア加工が施してある。サブのほうはグロッシーなパネル。反射が拡散しない分黒のしまりはナナオよりいいのだが、画像を表示させると、その黒い部分に自分やなんかが映り込む。これがモノでなくてなんだというのだろう。液晶パネルにはドット欠けもあれば個体別の色シフト、経年変化での輝度の低下やコントラストの変化もある。表示される条件によって表示内容は避けがたく変化をこうむるのであり、画像はそれを表示する現実のデバイスに依存している。埋め込みタグで汎用的に表示を補正するなんて夢のまた夢。
ディスプレイが嫌ならプロジェクタ表示でもいいが、スクリーンの汚れはやたらと気になる。かつてのミニシアターだと、映写スクリーンへの距離が短いため、スクリーンの後方に置いてあるスピーカーからの音を通すためにスクリーンに開けられたたくさんの小穴がやたらと目についたものだった。空中に投影すればそういった物性からの影響は少なくなるかもしれないが、現実的条件に左右されるのは同じである。
だいたい物質性ってなんなんだ。物質であることを強調させる要素のことか。物質らしさ、か。物質っぽい感じ、か。物質であれば物質だし、概念なり論理なりなんでもいいが、物質でなければ物質ではない。物質でなければ物質性の欠如も何もあったものではない。しきりにふりかざされていた物質性なる語だが、はたしてまともに定義されていたのだろうか。
マテリアルに支持されないものを見ることができない。頭で思い描かれているのは一般にいうところのマテリアルに依拠していないだろうが、それを実際に見ることはできない。肉眼によって画像を見る限り現実のモノに縛られ続ける。それがいやなら昔懐かしいサイバーパンクよろしく、ありもしないプラグをのんきにジャックインでもしてろってことだ。それとも物質性のなさを標榜していた人々のいうデジタル画像とは、霊とかそのたぐいの代物だろうか。われわれは眼前のモノや現実的条件と格闘していくしかないのである。