見つからない

という具合に、はじめてのデジタル一眼レフカメラが手元にあるのをそっちのけでSinarにかかりっきり。でも、こんなことをやっている暇があったら「お仕事」のためにαSweetの操作に習熟しなければならないのだ。明日にでもSinarを撮影してアップするか。でもこのカメラ、最小解像度でも1,504x1,000なので、いちいち画像処理ソフトを起動して補間変倍しクロッピングしてやる必要がある。めんどくさ。640x480で撮ってそのままアップできるコンパクト機のほうがよっぽど便利だって。
いや実は、こんなことをやっている暇なんてものはないのだ。人に渡すはずのプリントが、ネガが見つからなくていまだにできていない。あの頃のネガは、同じものを2度と撮影できないので、高価なバインダーに入れ防カビ剤も使って、自分としてはかなりきちんとに保存しているほうなのだが、必要なカットを含むシートだけが入っていない。しかも、探しても見つからない。まさか捨てちゃったんだろうか。一番大切なネガなのに……。だいたいいつもの例だと、あきらめるか必要がなくなった頃にひょっこり思いもよらないところから出てくる、というのが通例なのだが、そういうわけにはいかない。とにかくこれを裂帛の気合いで探し出さなきゃならない。とは思うのだが、いつもどこから手をつけたらいいかわからず途方に暮れて投げ出してしまう。
自分には整理する能力がないのだと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。こないだも必要な書類が見つからずに深夜まで泣きそうになりながらあっちこっちほじくり回し、あげく、何度も掘り返したはずの、机の上ですぐ手前にある紙の束から発見、ということがあった。整理がヘタなだけじゃなく、探すほうも不得手なようなのだ。これは写真をやる人間として致命的な欠陥なんじゃないだろうか。現実的対象を再現する一般の写真では、成否の大半は、見つけられるかどうか、ただただその一点にかかっているからだ。選択ではない、とは以前も述べたが、選択というのは見つかった結果をいかに捕捉して体よく仕上げるかという技能の問題であって、見つけられない限り選択のしようもないのである。あくまで、個々の撮影対象なり、それらを基礎づける関心の対象なり、撮影方法なり、さらには理念なり目的なり意義なり、実撮影行為を可能にするものが見つかった後にようやく、さまざまの細々とした選択の局面が後追いするのである。それはいわば後処理の、仕上げの問題である。むろん仕上げの影響は無視できない。仕上げで見た目は大きく左右される。しかし、仕上げは決定的ではないし、何かを生み出しもしない。仕上げのよさが価値の大半である、というジャンルもある。プリントや印刷や展示の仕掛けの工芸的完成度ばかりが目につくものがその典型だが、結局のところ何も見つけられなかったからこそ、与えられた選択肢のなかで仕上げを整えようとあがくしかないのである。
日々探しものをしている。眼鏡や財布や鍵が見つからず探し回るのは、毎朝繰り返す日課に近い。これだけ探すことに時間を投入しているのだから、さぞ探す能力が鍛錬されているかと思ったのだが、能力が向上すれば探すことにかかる時間と労力も次第に縮減できているはずで、あいかわらずやっているからには、改善されていないということに他ならない。いや、こういうことか。探すことにかけては習熟しているが、見つける才能がない、と。探すのは能力であり、訓練で向上が見込めるが、見つけるほうは素質次第であって、もともと欠けている人間にはどうにもならない。しかしながら、見つけたらそれ以上探すことはできない。見つける才能に恵まれていないというのは、ずっと探し続けるべく定められているということなのかもしれない。探し出す能力に乏しいからこそ、ただもう探して探して探しぬくことにかけては無類の強みを示すはずだ。