ガラパゴス化を徹底させねばならない

国際標準化されていない独自規格に閉じていることが、日本の通信業界なり各種製造業の成長障壁になっているとされている。国内需要の縮小が不可避である以上、国内市場という閉鎖系にこもっていてもジリ貧なのは目に見えている。
だが、今やっている写真では、さらに閉鎖系への孤立化を促進すべきである。初期条件と環境条件を特殊化し、外部との交易を遮断することにより、標準化への趨勢にとりこまれず、独自の進化を遂げる、それ以外になすべきはない。
問題は、閉鎖系にありながらも、結果として外部にいるものと同じ進展をたどってしまう可能性である。遺伝的にまったく関係のない、遠隔地にいる2種の昆虫が、結果として同様の形態上の進化過程をなぞる場合があるように、まったく別の条件下にありながら、写真というメディウムのもたらす論理的必然に導かれて、同じ結果に至ってしまう、ということが起こりうるのである。まったく知らない同士が同時期に同じことを行っていた、という例はいくらでもある。写真の発明にしてからがそうだし、フォトグラム/レイヨグラフにしてもそうだ。写真では論理的考察を経てある結論に到達するという過程を踏まれることがしばしばあるがゆえに、このメディウムの体系的構造によって同じ場所に連れられていってしまうのである。
写真のガラパゴスを実現させるには、こうした結果的相似を排さなければならないのはいうまでもない。閉鎖系にありながらこれを実現させるためには、初期条件か環境条件のいずれかを変えるか、進みかたを変えるしかない。初期条件を変えるとはどういうことだろうか。とっかかりの条件のことである限り、これは今さらどうにもならないように思える。現実のガラパゴス島の生物にしても、進化の分化のおおもとは同じだったはずだ。体の組成を変えるとか、異星生命体になるとかいうのは無理な相談だ。環境条件は閉鎖系にこもればある程度特殊化できるだろうし、ガラパゴス島の生物種が独自の形態を獲得したのも、環境に適応して進化したことによるとされており、特殊な生存条件を用意するのは当然求められる。ところが、そうした孤立系にありながらも同じ結論に至ってしまうのが、決まり文句としてしばしば語られてきた「人間の考えることは同じ」というやつなのである。ならば考えかたを変えるか。論理を放棄するか。発狂するか。このままいけばそうなりそうな公算は高いのかもしれないし、実はとうにそうなっているのかもしれないが、それでは存立自体を続けられなくなってしまう。閉鎖系とはいいながら、ガラパゴスを維持するために、ある程度の外部との交易は必要である。そして、偶然に似てしまうという事態を避けるための軌道修正が必須となる。
絵画であれば、いったん独自の様式を確立してしまったら、あとはわきめもふらずに閉鎖系に孤立しても偶然の他との交差をまぬがれるのかもしれない。いや、絵画にも、まったく別の途を進んでいながら、なおもいつか共通して直面せざるをえない局面といったものがあるらしい。それは実作する人同士の間では、「あれね」とたやすく共有可能らしいのだが、われわれには容易に了解できない。写真にもそうした局面はあるだろう。写真が論理で組み立てられるとしたら、絵画にもまたジャンル特有の論理はあるに違いない。みながてんでに歩きながらいつの間にか広大な野っぱらに道ができるように、どうやってもいずれはそこを通ってしまうような道筋がある。実作する者が同様にぶちあたる壁。ジャンル固有の価値基準や見かたとは、そうした一部でのみ共有可能な領域で成り立っているのだろう。そうした部分を明確に記述しようというのがこの日誌の目論見でもある。どのようなジャンルにも、そのジャンル固有の事情というものがあり、それはジャンル外の者からはアクセスしがたい。
しかしながら、写真と絵画ではメディウムとして決定的な違いがあると思う。写真は元来科学によって裏づけられ、近代以降の写真用各種資材は基本的に工業製品として供給されている。工業製品である以上は標準化が必須となる。現に撮影フィルムなどのマテリアルはISOでがっちり規格化されているし、現像などのプロセスもE-6やRA-4などの事実上の標準規格で統制されている。デジタルであれば、ファイル形式、入出力インタフェイスの規格などすべて標準化団体の管理下にある。システムカメラの国際統一規格としてはフォーサーズ程度しかないが、それぞれのシステムの中で互換性が保証されている。一方、絵画もその道具の多くは工業産品ではあるし、製品規格ももちろんあるにせよ、写真製品のように厳密に標準化されているとは言えないだろう。たとえば筆の000番とか10番などといっても、メーカーによって仕様はまったくまちまちである。
写真というメディウムは、絵画というメディウムにくらべてはるかに標準化されている。それは工業製品として普及してきたという経緯によるところもあろうが、科学的合理性に基づいた体系として確立された時点でそうなるためのそもそもの素因があったと思われる。
写真を使っている限り、このメディウムが標準化を旨として発達してきたものであるだけに、うかうかしていると標準化の波に巻き込まれてしまう。道具が標準化されて似通っているだけでなく、写真におけるものの考えかたが、メディウムとしての標準化指向に方向づけられているのではないか。そこらじゅうで見られるたいていの写真は、そうして標準化された土俵の上で微細な差異を競っている。標準規格に依拠しながら、しかも競合相手との違いを強調して生き延び、あわよくば領土を拡大してあらゆる地域に覇権を広めようとする、それはあらゆる工業製品の生存戦略である。同様に標準化に意を凝らし、「誰にでもわかる」写真を目指すのが広告写真なり一般の写真の採る途だ。そんなものにはしょっぱなから背を向けてきた。異形のガラパゴス生息者とならねばならない。きわめて標準化されたメディウムをもちいながら、しかもあたう限り特殊化を実現していく、これがわれわれの営為の困難なのである。