さらに補足

写真における合理性を法治国家における法になぞらえたけれども、法治国家の構成者すべてがつねに厳格に法を遵守しているとは限らないように、写真の道具を使うにあたって必ずしも合理的に行動しなければならないわけではない。ただ、そうしたルールに従わなければ不利益をこうむる場合がある、というだけのことだ。適正露出なんぞくそ食らえとばかりにでたらめな露出で撮影したっていっこうにかまわない。写真はまったく自由である。でも、たいていは思わしくない結果に終わるだろう。時としてそれがおもしろい効果を生むかもしれないが、それをもう一度やりたいと思ったら、同じ条件が繰り返せるよう記憶をたどったりデータをとるなり配慮する必要がある。合理的ふるまいそのものである。きっかけは偶然であっても、筋道立てて考えることでそれを再現することが可能であり、安定した技術として身につけられる。それは科学的な態度の揺籃であろう。クロスプロセスという手法がある。実際にやったことはないのだが、ポジフィルムをネガフィルムの現像工程にかける、あるいは逆にネガフィルムにポジフィルムの処理をほどこす、それによって階調とカラーバランスが崩れた独特の効果が得られるというものだ。写真現像処理の標準的規格を逸脱した無茶なやりかたであり、偶然に頼った出たとこ勝負の処理なのだが、それでも、ある程度期待通りの結果を得るためには、露出を何段かオーバーにするとか一定のメソッドがあるらしい。そうして何度か失敗するなどして相応の手順を踏むことで意図に近い効果が得られるだろう。写真では自由かつ勝手気ままになんでもできるけれど、失敗を避けたいと考えたり、思い描いている何かを実現させようと思ったら、おのずと合理性へとうながされるのである。