根拠としての技術

昨日の日誌で「技術、さらにはメディウムが、……われわれが写真をなす根拠であり出発点である」と述べたが、それよりも写真をやろうというわれわれの意欲なり意志が最初にあるのではないかと思われるかもしれない。やりたいと思わなければ何ごともはじまらない。ところが、意欲を抱くにも、それを可能にする条件がある。写真が金のかかる技術的難度の高いものだった時代には、そもそも写真をやろうなどと考える余地すら庶民にはなかったろう。意欲を発動させるに足る外的環境が整備されてようやく、それがしたいと思うことが許されるのである。
とはいえ、日本に住むたいていの人がその気になればいつでも写真ができるという環境下に置かれている中で、それぞれのひとにとって、意欲が先か技術が先かはどちらともいえない。それらは相即的であり、循環的である。
だが、意欲を維持させるための技術というものがある。ただ漫然とやっているだけでは遠からず意欲はしぼんでしまう。それを長続きさせるには工夫が必要となる。
さらには、意欲が萎えてしまいそうなときに、それまでつちかってきた手業が支えてくれることが往々にしてある。食事でもするように手を動かし、なかば自動的にプリント作業をすることで、意気消沈や手詰まりから脱することができる。技術は合理的思考に基礎づけられているが、身についた技術が合理的思考を越え出てしまう場面がある。素朴な感情がしばしば合理的思考を圧倒するように。意欲やら意志なんてはかないものだ。それらは反省的理性にたやすく左右される。ものごとをあれやこれや考えるうちに意欲はあえなく潰えてしまう。そうした袋小路のさなかで、現実の作業の流れに身をゆだねることで、習慣化した手の技術が助けとなってくれる。身についた技術はゆるぎない。
また、関心が薄らいでしばらく現場から離れていても、機材がそこにあり、手に覚えが残っていれば、それに触発されてまたやってみようという気になることがある。
デジタル化の進展で誰もが写真をできるようになるということは、そうした、みずからの頼りとなるような手業を必要としなくなるということであり、フォトレタッチソフトの習熟やプリンタの素性挙動の知悉など別の方面の理解は必要となるものの、いわゆるコモディティ化のまっただなかにある標準化された知識であり、手がおのずと動くような手業とはいえない。もっぱらデジタルでやっているひとは、そうした手業に代えて何をよりどころとするのだろう。
技術はしばしば意欲の源泉となる。いまなお鑑賞対象としての写真にたずさわるひとの多くが銀塩作業に執着しているのもそこに理由があるような気がする。たとえ意欲が減衰しても、一連の所作によってなかば他律的につき動かされるような局面が存在する。いわば技術のほうがわれわれを駆動する。だからこそ、技術はわれわれが写真をやっていく根拠であり、「疑いえないものとして最終的に残るのは、眼前のカメラであり、ふりそそぐ光であり、それらを統御するわれわれ自身の技術なのである」。
 
カメラによって撮影される一般の写真では、情念の発露やら激情の爆発といったものには限界がある。写真のエクスプレッショニスムなんて聞いたことがない。感情の表出は写された対象を通してしかできず、文脈によって撮影者の感情を示唆する程度であって、絵画のように直接的な感情再現は難しい。写された内容がどれほど暴力的であっても、フレームに体よく収められ、きっちり描写されていたりする。どこか冷ややかだ。それは表向きは写真がつねに距離を置いた観察者だということだが、それというのも、線遠近法という西洋合理主義の規範に完全に準拠し、すみからすみまで冷徹な合理性に裏打ちされた写真技術が根底にあるからなのである。