熱血のひとはいつの世にもいる。曰く、技術じゃなく内容、感じるままに撮りまくれ、考える前に押せ。それはたいへん結構なのだが、そうした猪突猛進なかたがたが写真をかたちにできるのも、技術の下支えがあってこそなのは見過ごされがちである。
合理主義は100年前から旗色が悪い。われわれの合理的思考には、原初的で素朴で暗黙的な意識作用がつねに先立つ。それはそうだ。反駁のしようがない。合理的理性などというのはいつも、ものごとが終わってからやってくる後知恵である。ならば、写真においても、表出衝動のおもむくまま直情径行に突き進むのが本来あるべき態度で、あれこれ考えをめぐらしたり迷ったり順を追って推論したりするのは余計なあとづけなのかというと、そうではない。何も考えず虚心に撮影された写真があったとしても、それを可能にしているものこそが、合理的思考によって構築された写真の技術体系だからである。
写真術とは元来技術そのものである。写真黎明期において、湿板塗布や現像工程の技術を持たない者には写真は撮影できなかった。50年前でも、露出を合わせられなければまともに写せなかった。現在では技術的なことがらにいちいちわずらわされないで撮影に没頭できるようになったが、それというのもカメラに投入された高度な自動化技術のたまものなのである。そうした技術は、条件が同一であれば物理現象はいつどこで誰に対しても同じ結果を示すはずである、という科学的合理性の理念に基づいて営々と築きあげられてきた。原初的な感情の発露であれ、自動筆記であれ、無意識の反映であれ、あらゆる写真は、筋道立てて考えることに支えられてはじめて成立している。
現在の写真という道具の根幹には合理主義がある。この道具を使っている間はいつでも、われわれは知らぬ間に合理性に則している。法治国家において、ひとびとが気づかぬうちにあらゆる局面で法に規制されているように。そしてまた、日頃は忘れている法的支配が何かのはずみで露呈するのと同様に、カメラの操作がわからず習得していく過程などにおいて、われわれは設計を貫く合理性に随所で出会うだろう。
だから、こと写真に関する限り、合理主義批判は意味をなさない。技術の否定も通用しない。それは写真という道具を全否定することである。写真が現在の技術的地平上でなされている限り、それはどうあっても合理性の産物なのである。とはいうものの、それと感じさせもせずにわれわれの写真を維持している技術体系を、たえず自覚しながら写真を行わなければならない、などと主張するわけではない。自動化されたカメラを使うならばその恩恵を存分に享受すればよい。ただ、写真について考えるのであれば、それが滑稽な戯言となりはてないために、写真を可能たらしめている現実的諸条件はたえず顧慮されるべきだろうし、写真をめぐる思考の様式の1つとして技術に根ざした様式があってもよかろう。
写真の技術体系とは、カメラやレンズなどのデバイス、フィルムや印画紙なりインクジェット出力紙といったマテリアル、現像処方あるいはフォトレタッチソフトの操作方法のような撮影の後処理としてのプロセスの3者と、それぞれを運用するために必要な知識と手順の集積からなる。さらにそれらをとりまく工業的・経済的・社会的基盤を含む総体を写真のメディウムと呼ぶ。この技術、さらにはメディウムが、写真を可能にするよりどころであり、またわれわれが写真をなす根拠であり出発点である。いいかえれば、写真をやっていくうえで、疑いえないものとして最終的に残るのは、眼前のカメラであり、ふりそそぐ光であり、それらを統御するわれわれ自身の技術なのである。
この日誌は、実際の制作工程のただなかにあって、あたう限り合理的かつ明確かつ現実的に写真というメディウムについて考えるべく記述されている。