写真における様式

鑑賞対象としての写真と商業写真との違いとは、前者はひとつの様式の提示であるのに対し、後者は多くの様式の併置だという点にある。鑑賞対象としての写真では、誰しも、複数の制作物を通じて統一的に認められるような、そのひと固有の作風なり主題といったものを確立すべく努めており、また求められている。それがうまくいっていれば、第三者の立場から見た場合、そこに一定の様式が見てとれる。一方商業写真では、すでに確立されたあまたの様式の中から、目的に合致した様式を適宜見つくろってきては借用し、用途に巧みに当てはめてみせる調整能力が問われる。諸様式のマネジメントとでもいうべき職種である。
それはジャンルが成熟して一通りのことがやりつくされてしまったということだ。こうした事態をもっとも特徴的に示しているのが服飾というジャンルであろう。このジャンルでもはや革命的に新しい様式など考えられない。せいぜい新奇な素材が投入される程度で、フォルムなりシェイプなりディテールはすべて出そろっており、そうした何々風の様式をどう組み合わせてどんな文脈に乗せるかだけで目新しさを競っている。まさにファッションであり、商業写真でももっとも華々しい一角はそのような流行の意匠の変遷でまわっているだろう。
商業写真にもオリジナルな様式を提示するものがある。それはオリジナルであるかに見えて先行者からの器用な剽窃である場合が多く、鑑賞される写真のブランドをまとうことで商売上の看板づくりに寄与している。それも「鑑賞対象としての写真」という様式の応用である。だが実際にはそれだけでは立ちゆかない。発注者の注文にはそのつど応じる必要があり、それ以上に、商業写真における様式はファッションとしてたちまちのうちに古びるので、特定の様式だけで長くは食いつなげないからである。
ただ、諸様式が飽和状態になる以前の段階では、汎用性のある様式において未開拓の分野が残されており、商業写真にも新たな様式を提示できる余地がまだあった。その時点では、商業写真が鑑賞対象ともなる局面がありえたのである。
だが現在では鑑賞対象としてオリジナリティをそなえていると誰の目にも認められるような様式において、商業写真としても使い回しのきく汎用性の高い様式としてはあらかた出尽くしてしまったようだ。現在鑑賞対象として提示されるのは、鑑賞対象としてしかなりたたないようなとりまわしにくい様式がほとんどである。あるいはかつてあった様式を、鑑賞者の忘却や無知につけこんでさも新しいかのように持ち出すという、鑑賞対象の商業写真化。
あちこち動いてあれこれ見て思ったのは、建築であれ絵画であれ、様式の提示なのだということ。追従者はできあがった様式を模倣する。そうした追従者が増えていってその時代の特徴的な様式となる。たとえばフォトリアリズムがそうだ。かつてこことかここで述べたようにフォロワーが出てはじめてオリジナルがなりたつ。すべて様式で説明されうる。特定のジャンルを見ていくにつれ、似通った対象どうしをひとくくりにして扱う態度が要請される。しかし、様式として処理されるということ、様式化するということ、は、それが作風として確立されたことを意味し、それは陳腐化と同義である。様式とは後代から見た、いわば後知恵である。すべてを様式に押し込むような態度に与するのはわれわれのとるべき途ではない。様式と見えた時点で、その様式は終わっている。その運動が終わったあとで、ようやく様式として認知されるのである。だからこそ商業ジャンルは様式で構成されているのだ。鑑賞対象としての写真が様式として意識された時点で、それはマンネリに堕している。様式をすりぬけなければならない。落ちていく橋を落ちる前に渡りきるように、様式化する寸前でそこから脱し続けなければならない。