職人と技術

なおも8日付日誌の補足。10数年前から、技術について述べると必ず、職人になりたいんですかとか職人崇拝だなどと言われてきた。まったく違う。しばらく前まで職人をむやみに持ち上げる風潮があったせいもあろうか。
職人といわれるひとびとにもいろいろいるだろうし、一人の職人にもさまざまな面があるだろうから、一概には言えないが、職人に不可欠なのは熟練だと思う。ある技に通じるためには長期にわたって継続的にとりくむ必要があり、たやすく投げ出すようでは職人の条件を満たしていないだろう。生産水準の維持と継承が重視され、改良も日々行われるにせよ、それは品質や効率の向上、手法や工程の洗練といったかたちで果たされ、大変革などは嫌われるのではないか。基本的に職人は保守的だと思われる。
われわれがよく知っている具体的事例についてしばし考えてみる。ある方法にとりくんで、その目処がついたとたんに飽きてしまって次のことがやりたくなり、どんどん別のことに興味が移っていくなどというのはおよそ職人たるべき資質を欠いているといわざるをえない。さらに、技術への関心のもちかたが、いかにして誰もやっていない変なことをやるかという点にあって、完成された技術をたえず疑い、先人の技術的達成をひっくり返すようなことばかり画策している者は、むしろ職人の対極に位置すると考えるべきだろう。
プリント作業は場数を踏んだなりに慣れてはいるけれど、専門でやっているひとには品質や作業効率の点でまったく及ぶところではない。なぜなら腕を磨くつもりがまるでないし、そもそも品質に関心がないから。そんな者は職人からはほど遠い。モノクロプリントの階調再現に精魂傾けるひとびとなどはその点で職人に近いのかもしれないが、写真をやっているにもかかわらず、色やトーンや描写にさしたる関心を払わず、ろくに違いも見わけられないような人間が職人たりうるはずがない。だいたい職人たるもの「意気阻喪」から技術を支えに脱するなどという甘えた口をきくわけがなかろう。
技術を重視する者が職人的だなどというのはあまりに短絡的な了見である。技術は職人だけのものではない。誰にでも開かれているのが技術である。むしろ、職人が身につけているのは、長い修練の末にようやく獲得できる特殊な能力としての技能であり、誰もがおいそれとは真似できないような、そのひと自身しか持ちえない技巧とか技芸である。職人とはそういった稀少性の高い技を売りにする存在なのである。技術はそうではなく、何度も述べたように標準化されていて誰もが習得できる。現在の写真焼付および引き伸ばしの基本的な作業では、難しい工程はひとつもない。誰でもその気になれば覚えられる。写真に職人的腕前が必要とされたのは、1871年のガラス乾板発明と1873年のブロマイド印画紙発明までの、写真がいまだ手工業にとどまっていた時代だろう。それ以降、写真が工業製品として改良されていくにつれ、超絶的な手先の器用さを競ったり工芸的な仕上げのよさを誇るような余地はどんどん減っていく。100年後の1970年代には樹脂加工印画紙が発売され、基本的には誰でも容易に写真現像ができるようになると同時に、写真の機械処理も加速する。この時点で、職人的腕前はネガとプリントの修整といった作業に限られてしまう参照1参照2。そのかわり多くのひとが写真の技術の成果を安価で手中にする。このように、職人的技能は技術の進展によってかえって放逐されてきたが、それはどんな分野にもありふれた図式だったはずだ。技術は職人的技能を包摂・吸収してきたので対立するものではないし、職人の作業の多くはきわめて合理的であり、標準化された技術と通じるところは多いにしろ、それらは明確に区別されるべきである。
手工業的な職人技には敬意を表するし、写真技術の一角をなす高度な技能としての興味はあるが、今のところやろうとしているのはそれではない。古典印画法などというのは紙と単薬が供給されている限りいつでもできる。マシンコートのモノクロ感材も小規模生産者がずっとつくりつづけていくだろう。今やらなければならない必要はまったくない。職人という生産形態は小規模でもなりたつし、元来手工業生産なので生産設備にはさほど依存しない。しかし、銀塩カラー写真感材はきわめて大規模な生産設備を必要とし、一度失われてしまったらもはや再興は不可能とされている。今なすべきは、化学工業技術の粋が結集され、現在成熟の頂点にある銀塩カラー写真技術によってのみ可能なことである。われわれの関心は、一部の専有物としての職人技ではなく、誰にでもアクセス可能な公開された技術にこそあるのだ。