技術の外在化

またまた補足。デジタル工程についてまた否定的なことを述べたけれど、AdobePhotoshopの機能や操作や挙動がわりあい合理的にできているのをうっかり忘れていた。合理的に設計されていて、なおかつ標準化された道具なのだから、これは写真技術を十全に継承していると考えるべきである。しかも従来の写真の機能や工程を巧みになぞってある。デジタルカメラの操作も、借りて使った限りでは巧拙はあるけれども合理的につくられているものが多い。考えてみたら手業の過度な称揚は職人的技能の神格化につながりがちであり、開かれ標準化された技術をよしとするわれわれの立場と齟齬をきたす。手のふるまいによる技術とコンピュータ上の技術とは連続したものとして考える必要があろう。
ただ、AdobePhotoshopの操作系にはやや混乱が見られるところもある。Adobeのソフトはやや論理的でない傾向がある。ひどいのはIllustratorIndesignは納得がいく部分が多いのだが、それと同じ操作性や挙動をIllustratorに期待すると裏切られる。数値のアップダウンキーとか。こいつは昔から論理性を欠いていた。ヴァージョンが変わるたびにコマンドが属するメニューの位置が変わるなんて嫌がらせとしか思えない。これまで使ったアプリケーションのなかでいちばん合理的だと思うのはQuarkXPress。最近のヴァージョンは知らないが、3.3Jまではたいへん合理的にできていた。キーボードショートカットに至るまで筋が通っていて無駄がない。もっともわけがわからないのはMicrosoftWord。これの文字組はいったいどういうロジックで流れるのかまったく理解に苦しむ。QuarkXPressなりIndesignといったページレイアウトソフトのほうがはるかに明快で疑問の余地がない。でなければテキストエディタのほうがずっとわかりやすい。Wordなどという難解きわまりないアプリをストレスなく使えているひとびとにはいつも感心する。
「カメラやレンズなどのデバイス、フィルムや印画紙なりインクジェット出力紙といったマテリアル、現像処方あるいはフォトレタッチソフトの操作手順など撮影の後処理としてのプロセス」によって写真の技術が構成されると述べたが、デバイスもマテリアルもプロセスも、現実の有形の道具であると同時に、それぞれやそれらを組み合わせて使ううえで必要となるわれわれの側の知識や所作といった無形の要素が含まれた技術の総体として考えている。かつてのカメラはそれだけを渡されてすぐに使えるものではなく、露出などに関する一般的な理解と、個々のカメラについての、ピント合わせや露出調整やシャッター開閉など操作法の把握が、撮影するために最低限必要であった。さらに、意図通り失敗なく使うためには習熟も要求される。道具に対する理解と把握と習熟という内在的な無形の技術は、次第にカメラ本体のほうに移転され、道具の一部として組み込まれた。その結果、観光地で未知のカメラを突然預けられても、適当にそれらしいボタンを押しさえすれば、あらゆるパラメータをカメラがわれわれのかわりに判断し、手ぶれまで補正して無難に撮影してくれるまでになった。デバイスとその使いこなしの全体として技術を考えることで、カメラの進歩をたんなる機材の改良としてばかりでなく、使うわれわれの側をも含む変化として理解できる。写真における技術の発展は、性能向上だけでなく、無形の技術が有形の機材にとりこまれていわば外在化していき、そのことで操作が簡便になって普及していく過程としてもとらえられるのである。
マテリアルやプロセスに関しても同様に考えることができる。1860年代までは湿板塗布などの前処理と現像以降の後工程を基本的には撮影者自身が行う必要があったから、デバイスの操作者が同時にマテリアルとプロセスも管理していた。しかし乾板と塗布済み印画紙の普及に伴い、後工程の技術がなくても撮影できるようになり、ほどなくして撮影後の原板を業者に委託して現像焼き付けしてもらうという現在のような処理体制が確立する。プロセスの外在化であり、デバイス・マテリアル・プロセスの分業化ともとらえられる。自家プリントを行っているわれわれも感材はできあいの製品を購入しており、黎明期の写真家のように感材そのものから自前でつくっているわけではないし、カラーネガの現像はラボに外注しているから、マテリアルとプロセスの一部を外在化させているわけだ。カラー感材はとうてい自作できない。時代が下るにつれ、自家現像を行うのはごく一部の職業的あるいは趣味的な人間のみとなり、ほとんどのひとは撮影後のフィルムを写真屋に持ちこんで処理を依頼するようになった。道具としての引き伸ばし機や現像機とそれを扱うための素養という、写真のプロセスを構成する実際の技術を外部にゆだねたわけである。その段階で必要となるのは、注文時の指示ができる程度の理解と外注先の諸事情の把握、仕上がりに不満な場合に再指示するためのやりとりといった手続き情報であるが、それもまた写真というメディウムを構成する要素の一部と考えられる。
ところがパソコンおよび関連機材と画像処理ソフト、のちにはデジタルカメラの登場により、一度は放棄したプロセスを多くのひとが再び手元にとりもどすこととなった。そこでAdobePhotoshopということになるわけだが、これは外部に委託していた技術を内在化させるものなのだろうか。プロセスの管理を自分で行えるようになったことは間違いない。だからあたかも現像焼き付け引き伸ばしを自分でやっているかに思ってしまうのだが、実際にやっているのはプリンタなどの機械である。それはこういうことではないだろうか。現在の一眼レフカメラは基本的にほとんど自動化されている。構えてシャッターボタンを押しさえすればそれなりに写してくれる。かつて人の手でやっていた露出やピントの制御はすべて機械が代行してくれる。これはわれわれの技術が外在化してカメラのなかにとりこまれたといっていい。ただ意図に応じてさまざまなパラメータの管理ができ、カスタマイズが可能である。それと同様に、画像処理ソフトとは、われわれが銀塩焼き付け工程で内在化していた技術をアプリケーションという体裁で外在化させた有形の道具であり、それはパラメータ操作というしかたでわれわれを処理に関与させてくれる。それは、ラボが焼いた色見本に対して指示を重ねてプリントを焼いてもらうという銀塩引き伸ばしの外注工程とは違って直接関与しているのだが、同時に外在化された技術が介在しているのも確かである。内製化されてはいるがひとと技術との関係で見ると外在化されているということだ。そうした意味で、これも無形の技術の道具への移転、技術の外在化という大きな流れのなかに位置する一過程であると考えられるだろう。