「プロジェクト」も「コンセプト」もクソ喰らいやがれ

図面引き。でも、結局組んでみないとどうなるかわからないし、それだったらフリーハンドでざくざくこしらえていったほうがいいような気もするのだが、2器目以降を量産していく可能性を考えると、再現のための土台だけでもあったほうがいい。
 
「プロジェクト」ではない。
あらかじめ目標と得られるべき成果が想定されていて、それが達成されたことを以て成功とする、そんなものをやっているわけではない。
計画やら事業ではないのだ。イマドキの「アート」がそうしたものだというなら、そんな「アート」にすりよる気は微塵もない。
大がかりなことをやろうとすると、人員と資金と各方面の許可やら協力が必要となり、企業と行政の作法に従わざるをえなくなって、制作工程自体が商業的フォーマットを踏襲することとなる。だが、そもそもそれは、枠組が確立されていて結果が予見できるからこそ可能なのである。でなければ交渉しようにも門前払い。規模の大小にかかわらず、それが今推奨されている態度のようだ。ただただバカバカしい。
「コンセプト」なんてない。
出発点となるべきコンセプトを前もって設定して、それに沿って構想し準備し実行していく……なんて、商品企画やら店舗プロデュースじゃあるまいし。いわんやあとづけの見えすいた「コンセプト」など論外。
ビジネス書が謳う「成功」なんぞをありがたがってその流儀に倣っているような「アート」とはいったいなんなのだろう。「コンセプト主導型アート戦略」。たいがいにしてほしい。
何が出てくるのかわからないところで、手探りでもんどりうっているのだから、終点など見えない。どこに行くのか皆目見当もつかないのにねらいなど立てられるわけもない。こちとらいつだって出たとこ勝負。
アートが高尚でビジネスは卑しいなどと芸術至上主義を振りかざしているのではない。少なくとも自分がこしらえているものが特別なものだなどという意識はもとよりない。ましてお宝やら資産やら投機対象なんかじゃない。むしろ底辺者という自覚こそがずっと根底にある。ビジネス的成功が喧伝されるけれど、それだけじゃないだろう、こんな外れ者がたまにはいたっていいだろう。いわゆるハイアートなるものの社会的意味、いいかえれば価値基準を共有する閉じた層ではなく広く市井のひとびとに訴える価値とは、つまるところ、こんな変なやつが世の中にいたっていいんだ、と思わせてくれるところにしかないと考えている。そのなかでもとりわけ変なものがかたすみにある。そういうよすがを必要としているひとをいくばくかでも支えられればそれでいい。万人に通じるなんてはなから思ってない。世間的主流とは元来縁遠い。