暗室作業をやっていると、何かしら進展した気分になる。露光もして写真をやっていると確認できるからなのだろう。写真器づくりは、ものをこしらえているという実感はありあまるほど与えてくれるのだが、先が見えず、果たしてどこかにたどりつくのだろうかという疑問がつきまとう。いつ完成するという目途が立たず、やってもやっても失敗に終わるような不安に追われ、しまいには自分は何をやっているのだろうという思いにとりつかれる。一方、撮影なり現像は、各段階ごとの結果は程なくして見られるから、果てしなくとめどなく作業が続くということはない。処理であって、それぞれが1工程であるから、手慣れた手順に沿ってことを進めればかたちになる。だから、ほんとに何かを新しくつくっているのは、手でじかに写真器をつくっている段階なのだ。あとは写真器という道具を現実の諸条件下で行使するだけにすぎない。写真において「創造的」なのは、写真というシステムを開発したことなのであって、実際に写真を撮影する段階はそのデモンストレーションにすぎない。写真というメディウムの可能性を個々の状況に当てはめるだけ。写真家とは単なるオペレータにすぎない。それが如実に示されるのが、デジタルカメラでの撮影と後工程。データ処理そのもの。デジタルプロセスは、フィルム現像やら引き伸ばしといった工芸的な手作業領域を排除することによって、写真本来の処理作業としてのありかたを鮮明化したともとらえられるであろう。