水のように欲して生きている

あるところで「文学を水のように欲して生きている」といういいまわしを見かける。自分自身はまったく違うけれど、確かにそういうひとびとはいる。渇いていて、渇きをいやす水を求めているひと。映画をそのように欲するひともいる。もうすっかり疎遠になってしまったが、かつて何人かそういうひとを知っていた。マンガにもいるだろう。
では写真にそういうひとはいるだろうか。あまり思い浮かばない。あらゆる写真展の芳名帳に名前があると言われるひとがかつて2人くらいいたが、やがて遠のいていく。今では代替わりして別のひとがくまなく回っているのかもしれない。一時期の自分もひょっとするとその口だったような気もするが、「水のように欲して生きている」のとはおよそ程遠かった。いや、最初はそうだったのかもしれない。だが、しばらく展示を見ていれば、渇きをいやす水など与えてはもらえないとさんざん思い知らされる。その後は、ある種の調査のような目的と、あとは習慣、惰性で回っていただけだ。みずから写真をなすにあたっては、さまざまな渇き、渇望はある。その意味ではまぎれもなく写真を水のように欲して生きているのだが、おそらくこの文脈では鑑賞対象としてのそれぞれのジャンルへの接しかたが問題になっているのであって、そうするとまるで別の様相を呈する。他人の展示や写真集を「水のように」欲することはない。それどころかほとんど関心はない。展示を見たり行ったりしている限り、みなおおむねそんなものではないかと思う。ひとりだけ、情熱的に展示を見ているひとがいて、ひょっとすると水のように欲しているのかもしれない。ちょっと尋常ではない執着を感じさせる。写真集のコレクターはたくさんいるだろうし、彼らには「尋常ではない執着」もあるのだろうが、彼らの執着の向かうところは、写真とはちょっと違うことが多いような気がする。気がするだけで、あまり実例は知らない。
展示を回ったり写真集を買うだけだけが「水のように欲して生きている」ことだとは限らない。渇いているなら貪欲に欲するだろうとは推測されるが、人知れず、ネットを徘徊して写真を求めているひともいるかもしれない。でも、いずれにせよ「文学を水のように欲して生きている」ひとのように写真を欲しているひとの像を結ばせるのは難しい。
絵画はどうなのだろう。単なる憶測でしかないけれど、映画やマンガほどにはいないだろう。やはり、物語がないメディウムには、それほどの渇きをいやすだけの力はないのだろうか。だが、音楽にははっきりした物語があるとは限らないが、音楽を「水のように欲して生きている」ひとがいないわけはない。ひとの息づかいやら人間的な「ぬくもり」やらが必要なのか。自然風景にそんなものはないが、それを欲するひとはいるだろうし、鑑賞対象としての建築を含む風景もそれに近いだろう。
写真や広く美術は知的な関心で見られることが多いからだろうか。「エモーショナル」な、もっといえば扇情的な写真はある。だが、そこどまりだ。結局はとりまく文脈に訴えているだけで、写真そのものにそんな力はない。「文学を水のように欲して生きている」というのは、わかる。当事者ではないが、そのような心境は理解できる。しかし「写真を水のように欲して生きている」ひとというのがどうにも思い描けないのである。現代美術はなおさらそうだ。
それは「現代美術」やら「現代写真」の問題なのだろうか。今は失われてしまったが、かつてはあったのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。他ならぬ自分の写真は、いったいどうなのだろうか。べたべたな扇情など排しており、物語など写真を見る限りはない。そこらにあふれかえるそんな安易なおもねりこそ唾棄すべきである。それでも、見てくれるひとに対して、何か訴えるものはあるのだろうか。「水のように欲して」いるひとの渇きに応える何かを湛えているだろうか。他の写真や現代美術と同じく、パサパサカサカサだったり、甘ったるい砂糖で塗り固めてあって、かえって渇きを助長するような代物だったりしないだろうか。