メンテとしての撮影

撮影行きたいなあ。 天気よかったなあ。
といっても、撮影に出ないと勘が衰えちゃうなどと案じているわけでもないから、しばらく撮影がごぶさたでも別にさしたる支障はない。
ある写真家は毎日同じ対象を撮影しているのだという。勘を鈍らせないために。ある画家は毎日デッサンをするのだそうだ。ピアニストが毎日練習しないと指がなまってしまうように、毎日描かないと衰えるのだとか。でもそのひとがやってるのは数10年前にはやった様式の非定形抽象で、デッサン力が衰えたからといってどう影響するのかまったくわからない。
そういった職業意識にあふれた熱心なかたがたは立派だと思うが、そんな努力をする気はさらさらない。いうまでもなく技術重視の本日誌ではあるが、標準化された技術というのは、本来そういった手の熟練に関わりなく誰でも扱えるもののことである。その手の「うまさ」、処理の巧みさはむしろ職人的熟達に属するものであって、われわれの考える技術ではない。
だから気が向かなければ撮影なんぞする必要はまったくないのである。撮影機材をしょって1日歩いても気に入る場面に出会わなければ無駄にフィルムを消費する理由なぞない。撮影の腕を維持するために撮影に出ているわけじゃないんだから。これで食ってもいないので、技能水準を向上させるべく職業的に刻苦勉励すべきいわれはない。1日歩き回っていろいろ見られて気分もよかった。それで充分。この行動様式で20年近くやってきたのだ。ある敬愛する画家も、気が乗るというか機が熟さなければ数カ月絵筆をとらないこともざらだという。メンテのための撮影なんて空しすぎる。
ただ、習慣として日々撮影に出るというひとを否定はできない。惰性ではなく日課としてカメラをもって出かけて、義務や強制ではなく興味から撮影する、それはすばらしいと思うし、もはや自分にはできないということに引け目も感じる。
ただ単に、写真やりに出かけたいというだけ。実際に撮影できればそのほうがいいが、別に収穫なしでもそれはそれでいい。写真器もってふらっと出かけたい。「ふらっと」がだいじ。
さて現実逃避はここまで。