定地点は下がらず見送ったら急に下がっていた。朝快晴だが南に雲あり透明度が低い。これは剣呑と見守るうち巻雲巻層雲積雲が広がり無駄足踏まずにすむ。プリント作業を続けるのにちょうどいい。飯田橋はこんなもんか。雷門はManfrotto475B三脚を最大に伸ばし、できれば踏み台も用意してすぐにでも再撮影したい。Pro160NCで。でも次の冬至にもきっと行くだろう。これはそこまでやらないと。
標準に近い露光量の4x5カラーネガを標準現像してカラープリントするところまでは安定軌道に乗った。あとは周回を重ねていくのみ。大全紙までの引き伸ばしは問題ないはず。135と120のロールフィルムでも手持ちの道具だけで支障なくこなせるだろう。今後解決すべき課題はネガの増感現像である。
アンセル・アダムス『ザ・ネガティヴ』に、カラーフィルムに対する前露光についての言及がある。モノクロ感材と同様にシャドウ部のいわゆる「ヴァリュー」を引き上げる効果があるとのことで、モノクロネガフィルムの場合には彼の用語法におけるゾーンIからIIと1/2の前露光を、カラーポジフィルムやポラロイドフィルムではより強いゾーンIIIの前露光を与えるよう指示されている。後者が一般のモノクロネガフィルムより高コントラスト特性を有しており、彼のいう「ヴァリュー域」が狭いからだろう。ただ、カラー感材を扱うに際してゾーンシステムの思考様式と概念群をもって臨むことに意味があるとは思えない。前露光については、こういう考えかたのほうがよほど現場に則していて合理的である。アダムスの著述では、露出制御に関するすべてをゾーンシステムの体系内で説明しようとするあまり、説明が不必要に抽象的でわかりづらくなっている。もっとも、かなりお粗末な翻訳で読んでいるせいもあろうが。アダムスは合理主義者ではないと思う。リゴリスティックな完全主義者ではあったのだろうが、それはしばしば合理性とは相いれない。彼はつねに一定の条件で処理しなければならないと主張するが、印画紙のバット現像で処理条件を一定にするなどというのは現実的ではない。自動補充機能つきで、しかも処理液量がきわめて大きく、補充による能力の変化が無視できるほどの大型自動現像機ならともかく、気化と酸化につねにさらされており、攪拌も手作業のバット現像で、補充により能力を維持するなど無理な話だし、係数現像など到底できっこない。論理的であることと合理的であることとは違う。写真にとりくむにあたりこうした態度もありうるだろうと思うし、これはこれで合理主義の1つのつきつめかたと理解すべきなのかもしれない。しかし、アダムスの中心的活動期とは性格が異なる現状の感材でゾーンシステムを行おうなどというのはもはや教条主義に近く、つねに融通無碍で現実的であることを旨とする、われわれにとっての合理的態度からはずいぶんと遠いだろう。
もちろん、鑑賞対象としての写真を製作するための技術的蓄積に対するアダムスの貢献を否定するつもりはない。これまで何かと参考にしてきたし、今なお示唆に富む記述が多い。前露光については、カラーフィルムの場合、シャドウ部のみの色調を変えるために前露光が使えるという。これはネガ内の高濃度域と低濃度域間でのカラーシフトにも適応可能だろう。コントラスト圧縮効果もあるのだから、アダムスもいうように、テストを要するけれどやってみる価値はある。さらに、プリント時の前露光も併用すれば、さらに調整の幅を拡げられる。
このカラーシフトは旧型器でも発生した問題なのだが、単に長時間露光に起因するカラーバランスの崩れというよりも、カラーフィルムの多層膜乳剤という物理的構造に由来するのかもしれない。そう考えれば、長時間露光適性の有無とはかかわりなく、Portra400NCでも160NSと同様に発生していることの説明がつく。だとすればPro160NCに変更したところで解消できないだろう。なら安く買えるFujiUSAの160Sでもいいわけだ。対処の方法はいろいろ考えられる。プリント時に焼き込みでフィルター値を変えて補正する手もある。これは、全暗中でフィルターダイヤルを回すのが厄介ということでこれまで避けてきたのだが、イーゼルに覆いをして光が当たらないようにして微弱な光でフィルター値表示窓を照らせばいいわけだ。露光途中のヘッドに触ることになりブレが懸念されたが、実用上問題にはならないだろうし、多少ブレても判別できるほどシャープなネガではないので問題ない。