アウトプットと価値のピーク

ある写真家の個展を見た。以前はロールサイズの印画紙を2枚つなぎにした巨大プリントの展示をなさっていた人物だが、インクジェットになっていた。ネガプリントなら光学的引き伸ばしをやってくれるラボはまだいくつかある。しかし8x10のポジフィルムなので、ずっと依頼していた大阪のラボがやめてしまい、Kodakのダイレクトプリント用印画紙もなくなったのでインクジェットにしたとのこと。それならまあ理解できる。撮影は以前同様8x10ポジフィルムを使い、フラットベッドスキャナでみずからスキャンしているとのこと。ところが以前にくらべ明らかにコントラストが低い。ネガのようなプリント。これだったらネガのほうがトーンが豊かでいいんじゃなかろうか。銀塩に執着はないのかと聞いたところ、あるという。商用写真撮影を長くなさっていた人物なので、ポジを使ってきた工程を変えられないのだろう。銀塩印画紙に焼くためにネガフィルムに変えるくらいなら、ポジを使い続けて、最終提示媒体をインクジェットにしてしまったほうがいいということだろう。
しかし、それで階調を変えてしまうのはどうなのだろう。軟調なほうがいいんだったら、昔の硬いプリントは何だったのか。あれはポジを使っていたからやむなく硬くなったということか。もっと軟らかい階調のプリントにしたかったのなら、元からネガを使っていたほうがよかったんじゃないのか。その写真家にとっては階調などさしたる問題ではなかったということだろうか。
17年くらい前、カラーで鑑賞対象としての写真を制作する写真家たちが、こぞってカラーネガに移行した時期があった。伊奈英次のような商用撮影を行っている写真家もネガに移行して自家プリントを行うようになった。タングステンタイプなら長時間露光の相反則不軌も無視していいし、露出に気を使う必要もなく楽でいいと語っていた。日頃業務としてはポジを使っていても、難なくネガも併用できるようになったひとも多いのである。だいたいモノクロは基本的にネガなんだし、カラーポジのようにライトボックスに載せて色味や露出の適否がただちにわかるというものではないけれど、カラーネガに慣れるのは、プリントを展示しているくらいのひとならさほど難しいことではないはず。そこで、「いや、ポジからのダイレクトプリントのパキッとした高コントラストの画が必要でポジを使っている」ということであれば、なんの文句もない。そのほうが写真内容に合う場合も確かにある。でも、インクジェットプリントにしたとたん軟調になるってのはどうなんだろう。
またつまらない技術的些末事だと思われているかもしれないが、インクジェットがいけないとかデジタルがどうとかいう話をしているのではない。階調は多くの写真にとってはだいじな要素だというのがわれわれの立場ではあるが、それもここでの中心的な論点ではない。問題としているのは、写真家と工程との結びつきということである。そこで出てくる疑問はこうだ。なぜ、くだんの写真家はカラーポジを使い続けるのか。
そのひとは、カラーネガだと、プリントをつくるための単なる中間材料にすぎなくて、ポジのようにそれ自体がたいせつなもの、とはならないのが嫌、というふうに語っていた。なるほど。たしかにわれわれカラーネガから印画紙のアウトプットを得ている人間からしてみれば、ネガは単なる中間工程でしかない。ネガを眺めてうっとりする、なんて聞いたことがない。いや、モノクロのガラス乾板を愛でるひとはきっといる。でもオレンジマスクが濃い今のカラーネガフィルムではちょっと無理じゃないか。版画の版みたいなものだ。現代の鑑賞対象としての版画は、定められたエディション数を刷ったら、刷るための元の版は傷をつけて廃棄するといった決まりごとがあるようだが、写真でエディション分を焼いたらネガに傷をつけるという話はさすがに聞かない。ネガ自体にはさしてありがたみはない、というのは確かだが、それと違って、カラーポジには、一点だけのお宝といったいわゆる「アウラ」があり、愛翫的執着の対象になりうる。カラーポジとカラーネガとで、「もの」としての魅力やら存在感やら価値を比較したら勝負にならない。まったくおっしゃる通り。
では、先の個展で展示されているプリントはなんなのだろう。最も価値があるカラーポジからの派生物なり複製品ということにならないだろうか。カラーネガであれば、プリントを得ることが最終目的であって、プリントが最終提示媒体なのは明白である。ところが、最終提示媒体をカラーポジとしてしまうと、そこから作成された展示物の価値が宙づりになってしまう。かの写真家としては業務で納品するのがカラーポジであって、そこで価値の序列は終結しており、そこから産出される、本来は目的であったはずの印刷物などの最終的アウトプットは二次的産品という位置づけなのだろう。かつてカラーポジ入稿が標準であった時代には、製版・印刷工程上での色の基準はカラーポジであった。印刷原稿であるカラーポジに限りなく近づけること、それが整版屋と印刷屋の努力目標だったのである。ポジがオリジナルで、印刷物はそのコピー。そのような位置づけが原板と展示プリントの関係にも持ちこまれている、ということなのではないだろうか。
現在、8x10のカラーポジフィルムを使う最大の層であるアマチュアのひとびとの目的は、8x10という大きくて緻密なフィルムを得ることらしい。ライトボックスにポジを載っけてルーペで覗いてほれぼれするのだそうだ。8x10の原板が意味をもつほどの巨大プリントを飾れる機会なんてそうそうないだろうし、仮にあったとしても、彼らの意識としては、原板が価値の頂点で展示用プリントはそのおこぼれ、程度になるのが必定であろう。こうして、銀塩写真は工芸化、「アウラ」化していく。彼らも銀塩製品の消費を支えてくださっているのだから、それを非難するつもりはない。
今後、写真の一連の流れの中でピークとなるのはどこだろうか。展示をしたりプリントを売買する旧来型の鑑賞対象としての写真ではプリントがそうでありつづけるだろうし、われわれはそれが価値の最終的な支えだと考えている。それはいつまでもちこたえるのだろうか。ゆくゆくはデータが最も価値あるものとなるのか。それともモニタ出力やプロジェクタの投影像や「フォトフレーム」なる製品での表示だろうか。あるいは、カメラの背面ディスプレイや携帯電話の液晶画面で、撮影したばかりの画像をその場で見せることが重要で、あとはすぐ捨ててしまう、ということになるのだろうか。チェキのようなインスタント写真が、その場を盛り上げるコミュニケーションツールとして盛んに使われたように。そのような多様な使われかたそれぞれに拡散していって、写真の価値のピークなどなくなるのだろうか。最終提示媒体なんぞとゴタクを並べているこのような思考様式自体が過去の遺物となりはてるのだろうか。そのとき写真をなすよりどころはどこにあるのだろうか。よりどころを求めるなどというのがすでにして時代遅れなのだろうか。