ものをよく見たいなら

味覚は視覚に左右されるという。料理は目で味わう、などとしばしば語られる。目が見えなくなったり事故で色を知覚できなくなると食べ物をおいしく感じられなくなるし、目をつぶって何を食べているのかわからない状態でものを食べさせられると味がよくわからない、とされている。
それはおかしいんじゃないか。五感のうちひとつが失われたら、他の感覚器官がそれを補うよう鋭敏化するはずだ。視覚障碍者は、聴覚によって空間を把握し、物体の移動を知覚できるまでになる。これは驚くべき能力である。われわれ視覚的健常者がそのような能力を獲得できるとは思えない。視覚とひきかえに聴覚の潜在的能力が具現化するのであろう。だったら、味覚も同じではないか。視覚を奪われたら、その分味覚や嗅覚が鋭敏になって、視覚が果たしていた世界把握を埋め合わせようとするのが当然だろう。実際に視覚と聴覚に障碍のあるひとは嗅覚が非常に発達しており、近くを小型車が通ったとか大型車だとか嗅ぎわけるという。また都内は空気がひどくて住むに耐えず、郊外に住んでいるとか。その能力を活かした仕事もしているらしい。
食べているものがよく見えないとおいしく感じないというのは、味覚の問題なのではなく、それ以降の想像の問題である。要は、味覚が貧弱なため、視覚的要素によって幻惑されておいしいと思いこまされているだけなのだ。雰囲気なんてものもそうだ。そのように視覚的情報に依存している人間を、雰囲気とか視覚的条件で騙してにおいもごまかせば、排泄物さえおいしいと思わせてしまえるに違いない。ほんとうに鋭敏な味覚を得て、ものをよく味わおうと思ったら、目などつぶしてしまうがいい。そうすればくだらない幻想や修辞は吹き飛んで、直接的な味覚と嗅覚だけで食べ物の味を知ることができるだろう。それが「おいしい」かどうかは知らない。だが、もしおいしく感じないとしても、それが本来の味なのである。そして繊細で研ぎすまされた感度をもつ舌と鼻で、食べ物を緻密に味わいわけ、嗅ぎわけることが可能となるだろう。
ならば、ものをよくよく見るためには、鼓膜を破壊し、味もにおいもわからなくして、触覚もなげうてばよかろう。視覚だけに特化した人間となり、余計なことを聞かずにものを的確に見わけられる。
盲目の名音楽家は多い。聾の写真家はどうだろう。
話はまだ続く。盲目の画家、長谷川沼田居というひとがいた。このひとをおいて極北はない。盲目の写真家は可能か。