曇。8時前から歩いて中心部へ。写真器とフィルムと三脚の一式を持っていくが、写真器にはフィルムを装填しておらず、ダークバッグも入れ忘れたので撮影できない。ただ担いで歩くだけだが戻るのも面倒。市庁舎を仰ぎ見、Avenue of the Artとの別名があるBroad Stを南下。パフォーミングアート関連の大学などいろいろ。Washington Aveのもっと先で折り返し12 Stを北に戻る。次第に晴れてきて、昼前に快晴になりそうになり戻るかとも思ったが、結局雲は残り戻らず。Walnut Stを西へ。30 St Stationで折り返してJFK Blvdを東へ。Delaware川に出て下る。対岸のNew Jersey側には軍用艦が停泊しているが、基地には見えないのでおそらく公開されている施設。こちら側には潜水艦や帆船があり、潜水艦に乗っているひとびとがいるので向かったらボックスの中から呼び止められた。これもMuseumで12ドル。引き返す。先の帆船の中はレストランになっている。戻って歴史的地区をうろうろし、やっとIndependence Hallに着いたと思ったら改修中。でも観光客が行き交う。中心街は歩いて回れる。ビールを差し入れにとTrader Joeに行くがここにもない。さてはPennsylvania州法で規制されているなと思ったらやはりそう。他のスーパーマーケットにもなし。18時頃戻る。ずっと徒歩。
 
「やりたいこと」がまずあって、そうした目的にそって手段を選択していく、という組み立てかたが、この国の教育で叩き込まれ、この国のひとの思考形式の根幹となっているのだということがようやくわかってきた。それが日本にも輸入されて、近年はしきりにそれが強調されるわけだ。確かにメソッドとして明確で論理的で堅固だし、さまざまな文化的背景を持つ多様なひとびとが共通理解に達する上で有用な考えかただとは思う。しかし、さまざまにある、ものごとの成り立ちかたのうちのひとつにすぎないとも思うし、それがアートをなす人間すべてが当然踏むべき手順だと信じて疑わないのはおかしいだろう。あらゆるルールを疑ってこそのアートであるはずだ。
それに、この国のひとにしても、つねにそんな単純な順序を追ってものごとを組み立てているだけではあるまい。偶然の結果得られるもの、ふとした思いつき、失敗から導かれる発想、そうした椿事がものごとを動かすこともあろう。というよりそれが自然ではないのか。いつだって「やりたいこと」があらかじめあって、そこから論理的に導かれていくよう筋道立てて進行されるわけではあるまい。むしろ「やりたいこと」が明確な出発点として構成される物語のほうがあとづけのフィクションなのではないかとしばしば思う。
やりたいことをまず立ててしかる後に道具を選択するという態度が疑わしいのは、その道具を実際に使って、道具との対話を通してはじめて、その道具で自分に何ができるのか、その道具が何をもたらしてくれるかがようやく把握できてくるからだ。カメラは中古の流通が多い商品だが、それは、買って使ってみてようやく、それが自分に合うかどうかがわかるからだ。よほどカメラに精通した人間でなければ、カメラを使うこともなく事前に得た情報だけで買っても必ず後悔する。目的と手段とは交互に影響しあうのであり、手段が目的を方向づけることだってある。手段を目的に従属させる固定的な態度だけでわりきれるものではない。
さらには、そうした態度のみが正しいとされるなら、「やりたいこと」として明確化されえないものが排除されてしまう。
写真の内容や構成要素とそれに対する判断を言語化するという教育的課程は、訓練としては有用な部分もあると思うし、役立つ局面も多いかもしれない。しかし写真を言明可能な評価軸でのみとらえることの強制につながるし、特定の価値判断への誘導になってしまっているように見える。生徒は教師の求める答えを返すよう暗に仕向けられるし、またそうする生徒が評価される。いくつかの限られた解読格子にのみ当てはめてことたれりとする姿勢にもつながる。
ここでも明確な言語化を標榜し実行しているつもりだが、それは趣旨と現実的過程を説明するということであって、内容の言語化ではない。
結局のところ、「やりたいこと」から組み立てていくという態度は、動機の明示という説明の方法ではあっても、着想や制作の方法では必ずしもないのではなかろうか。少なくともそれが万能であるかのごとき主張には大いに疑問がある。
しかしながら、世間との交渉を断って隠者となるならともかく、社会と接点を持とうと思ったら、その時代の主導的なルールにはある程度よりそっていく必要がある。社会が要求するルールにすりよるのを拒絶して、みずからのルールを貫徹することでうみだされたものがうけいれられることもないとはいえない。しかしそれはたまたま運がよくて文脈と一致するような僥倖に恵まれればの話であって、そんな事態はまず滅多にない。
対社会的にはそうしたパッケージにくるみ、通行手形をもらいうけつつ、なおかつみずからの流儀を曲げないこと。やっかいだ。