かつての阪神大震災後、被災地にカメラを持った連中が押し寄せた。おまえは行かないのか、すごいものがあるのにみすみすチャンスをフイにするのか、とまで言われた。もはや流行だった。
彼らが現地で被災者から「俺らをネタにして一山当てたいんだろ」などと反発くらう、ということがしばしばあったらしい。見抜かれていたのだ、格好のネタだくらいの了見を。職業的報道カメラマンから自称アーティストまで、そういう手合いがいくらでもいたから、現地のひとは敏感に察したのだろう。
それは、未開の地に出かけていって特異な習俗を物珍しげに収穫するのと共通の態度だったのではないか。しょせんはよそものの視線。
そして、被災地に取材した写真がたくさん発表された。ギャラリーや自費出版の写真集で、つまり報道用途とは考えにくい、鑑賞対象の写真の文脈で。
往年のモノクロ報道写真の様式をすっかりそのまま踏襲しながら、ギャラリーで提示されたり鑑賞対象として提示される、報道なのか美術の文脈に乗せたいのかよくわからないどっちつかずの写真たち。どちらかといえば報道寄りのものから、当時真っ盛りだった廃墟の文脈に乗っけたのまで幅はあったが、いずれも趣旨が不明確。
報道かアートのどちらかでなければならないと述べているのではない。どちらの文脈にも属さないまったく新しいものなら認めるにやぶさかではないが、見た限りではおよそそんな代物はなく、報道写真ぽくもありアートぽくもあり、中途半端にあちらこちらの既成の枠組に依存し、そのうえ既視感だらけの展示ばかり。
彼らはその地に行けば新しい写真が得られるとばかりカメラを持って押し寄せたわけだが、そこに新しいものなどない。むろんひとびとの日々の現実はそのつど生起していて、新しいも古いもないのだが、それを再現しようという段になるや、報道であれアートであれ、旧態依然たる図式にのっかっている限り、とっくに見飽きた紋切り型に回収されざるをえない。
特殊な場所に出かけていって特別な事態を撮影したとしても、そこに新しいものなどないのである。彼らはみな、それまでに見てきた写真や映像をあてはめてなぞっているにすぎないのだから。
今回も同じことが繰り返されるだろう。