「芸術家」の終わり(「芸術」の終わり、ではなく)

近代的芸術家は近代で終わった。そのはずなのだが、いまだにそれは根強く残っている。
近代的芸術家とは何か。俗世間の無理解およびそれに起因する貧困と孤独に戦い、死後に発掘される、というロマンティックな芸術家像が世間的了解だが、それは問題の一面にすぎない。芸術家としての自覚とか芸術史的意識の明確化とかいうのもアカデミックなジャーゴンというべきだろう。
そうではなくて、芸術家を全うし、生涯一芸術家であり続ける、という理想像にしてからが、もはや通用しない旧時代の幻影なのではなかろうか。
近代的政治家を考えてみる。ワシントン、チャーチル吉田茂……誰でもいいのだが、前世紀中葉までの大政治家たち。政治家として一家をなし、晩年まで為政者職にあり、長寿でかつ栄光に包まれて世を去る、という生涯。かつて国家元首とは権力の階段を登りつめてキャリアの最後にようやく到達するものだった。
ところが今ではそんなことはない。4、50代に元首となり、引退後は悠々自適の余生を送るのが世界の通り相場。日本では今なお老人支配が続いているが、世界の趨勢に照らせばどう見ても時代遅れである。
かつては経験と指導力とそのポスト自体を獲得するために人生の後半まで待たねばならなかったが、もはや老体では政治家として通用しない時代になってしまった。若くなければ激務をこなせない。引退後はカーターやクリントンのように元大統領という余禄で過ごすか、サッチャーレーガンのように現役時の無理がたたってアルツハイマーで終わる。社会の変化が政治家の生涯を一変させたのである。
経営者も同様。欧米主要企業の経営トップはやはり4、50代。限界を感じたところで引退する。居座っていてはめまぐるしく変動する現代の経営環境に対応しきれない。日本では依然として経団連老害まっさかりだが、国全体が老いているのだから打つ手なし。生涯一実業家という時代も終わったのである。
圧倒的多数の被雇用人はといえば経営者の側に回るべく努力するわけだが、昇給と昇進がいつまでも続くわけではなく頭打ちとなり、ほとんどは雇用者とはなれず、やがて役職定年となってヒラに戻り、定年、再雇用の道をたどる。自営業者なら、業種の衰退や産業構造の変化で商売替えはしょっちゅう。整備されたコースを一直線に予定通り出世していくなんて今どきまずいない。
ならば芸術家も老境を前に退くのが理の当然ということになる。是非は別として。
歳を経るごとに成熟し向上していって晩年に高みにたどりつく、という「人生観」自体が、近代的成長拡大路線に由来する幻想なのである。右肩上がりの成長なるものがいっときの幻影でしかなかったと誰もが認める昨今、芸術家といえども例外ではいられまい。成長し続けなければならない、という呪縛から、もうそろそろ解放されてもいいのではないか。つねに過去を超えるものを産み出すよう命じる強迫観念から脱却すれば、みんな楽になれるのではないか。
「芸術家」という語そのものに、一家をなし生涯一芸術家であり続ける、という含みがある。昔の絵画や彫刻であればそれも可能だったかもしれない。前世紀までは既得権益で食いつなぐことが可能な社会構造だった。だが現在ではあらゆる生産物がたちまち陳腐化し過去のものとなってしまう。それにあらがい次々に新機軸を出すもののいずれ出枯れて沈没してゆく、というのが、現今の企業の命運であり、おそらくは国家の帰趨もそうなってゆくだろう。ひとり芸術家だけがそこから逃れられる理由はどこにもない。
一方、新機軸すら出せずにずるずると過去の成功体験に頼り続ける者もいる。
ところが、今後既得権益にすがる者は退場を余儀なくされるだろう。国家資格があるから一生食いっぱぐれなしというのは前世紀の話。歯科医がいい例。弁護士や公認会計士もそうなりつつある。医師もいずれそうなるだろう。いったん礎を築いてしまえば一生安泰、という時代は去り、たえず競争を強いられ怠れば落伍の時代が到来する。最大の既得権受益者団体である公務員およびみなし公務員もいずれ身ぐるみはがされる。さもなくば国全体が退場を強いられ、全員で身ぐるみはがされる。
同様に、すでにできあがった縄張りや様式や名声にのっかって惰性のように生きながらえている芸術家たちも長くはなかろう。個別に消えるというだけでなく、彼らの存立基盤である「芸術」というシステム自体が、大学や人文諸学など旧時代の知的システム同様、沈みゆく既得権集団なのだから。
前世紀から一発屋はいたし、近世にもいたろうし、太古から似たような顛末はあったに違いない。人間のつくりはそう簡単に変わるものではない。だから根本的には同じともいえるのだが、とりまく環境は大きく変わっていて、別の対応をとらないと淘汰されてしまう。前の世代の身の処し方を見て、ああやればいいのかと真似していると、同じロールモデルの追従者多数との熾烈な競争にまきこまれる。みずからの経験にさえ頼れず、つねに更新していかなければならない。絞りつくしたらお払い箱。それでいいのか。いいとは思わない。しかしそれが現実。嫌気がさしてそうした勝負の土俵から降りると、まさに引退一丁あがり。
生涯現役で一生伸び続けねばならないという重圧からの解放。こうして「近代的芸術家」のその後が誕生する。大団円を迎える円熟した生涯という芸術家像にかわる別のロールモデルの登場だ。無惨な姿をさらす前に潔く去り、いかにドラマティックな引き際を残すか。原節子山口百恵のように。その嚆矢はランボーか。