裸の王様は誰か

誰がどう見ても価値がないのに、みながこぞって賞賛している代物やそれが帰属する人物をさして、あれは裸の王様だという。そうではない。誰それが裸の王様だとか、ひょっとして自分が裸の王様かも、などという主張は的外れというほかない。
個別の誰かが裸なのではない。アートやら鑑賞対象としての写真そのものが裸の王様なのだ。アートが裸なのに薄々気づいていながら、自分が無能だと露見するのを恐れるあまり、ありもしない豪奢な衣裳をほめそやす家来や民衆は、それらの関係者。
そして、王様は裸だと正当な指摘をする子供は、「現代アート」ってなんだかよくわからないよね、という共通認識を持つ、健全な市井のひとびとである。制度内のプレイヤーより、部外者のほうがものの核心を見抜いている、というのはよくある話だ。
王様の衣裳を賞賛する家来や民衆、そして王様自身も、裸だとさえ思わず、ありもしない衣裳が見えてしまっているのかもしれない。子供が「王様は裸だ」と正鵠を射ても、なお王様は裸ではないと信じて疑わないのだから。あたかも集団催眠にかかっているかのように、内輪だけの価値の尺度を振りかざして、衣裳の見目麗しさを互いに吹聴しあっている。
アート(や鑑賞対象としての写真)を貶めているわけではない。王様は、この物語の中で最大の損害を被っている。資産をまんまとかすめとられたばかりか、株を下げきってしまった。株といえば、この「アート」は「株式市場」とか「年金」、「資本主義経済」や「国家」にも置換可能かもしれない。王様は同情されるべき役どころである。そして家来も民衆も、多かれ少なかれ裸の王様である。同じ穴のむじなということだ。
衣裳が無価値どころか、そんなものが存在すらしないのをはなから熟知していたのが、売り込んだ当人の詐欺師である。彼らは売り抜けてまんまと逃げおおせる。この詐欺師はいったい誰か。