メディウムの交代に際しては、先行するメディウムが品質上も市場としても飽和しきってしまっているなかで、新たな需要を喚起するために次世代のメディウムが開発されるというのが世の常である。そこで強調されるのは利便性や経済的効率の向上であり、品質は必ずしも売り文句にはならない。充分成熟した規格に対して出たばかりの規格が品質において太刀打ちできるわけもない。先行するメディウムを選択する消費者は多く、この時点ではその理由は存在するし、次のメディウムに飛びつく消費者はまんまと供給者の術中にはまっているというべきである。ところが、開発費用を潤沢に与えられた新しいメディウムが、見切りをつけられた古いメディウムの品質を追い越すという事態がいずれ必ず訪れる。SP/LP/CD然り、凸版印刷/グラビア印刷/オフセット印刷然り。こうなると世間全体が古いメディウムを捨てて新しい方になびくこととなる。一度この流れができてしまうと、健全な判断力を持った消費者にとっては新しいメディウムに移行するのが合理的なふるまいとなる。規格にとって何よりも重要なのは市場占有率であって、聴きたい曲目がCDでのみ発売されるとなれば自然にLPシステムからCDに移ることとなる。一般の消費者はそのように内容次第で消費性向を決定するわけだが、内容ではなく器であるところのメディウム自体を購買理由とする消費者層がある。凋落する先行者を、なおも宗教的なまでの礼讃と忠誠心をもって擁護する手合いもそうだし、出たばかりの新規格商品にとびつく新しもの好きもそうだ。その両者をひとしく冷ややかに観察しながらメディウムというものについて考える、それがわれわれのとるべき姿勢である。その立場からすると、現時点で枯れきったブラウン管にすがるのは、いまだブラウン管のほうがいくつかの評価軸においてなお高品質であるにせよ、健全な消費行動とはいいがたい。市場の流れからしてもそろそろ乗り換えどきである。特定のメディウムへ過度に肩入れするのは、メディウムに対して意識的であろうとする態度からは程遠い、ということだ。
銀塩とデジタルについても同様である。銀塩に対して愛翫的思い入れから執着するのは、かつて商機を逸するなとばかりに率先してデジタル化した人々と同じ程度に見苦しい。しかし、半年程度で新製品が陳腐化してしまうような製品サイクルでは、まだ移行するには時期尚早であると見なされる。それ以前に、銀塩でしかできないことがまだあるし、それこそがいまのうちにやっておくべきことである、という理由が大きいのではあるが。
ブラウン管は50年以上の歴史を持つが、これほど長い寿命を持つ電子デバイスは技術史上ほかにないという。しかし、世界中にブラウン管を供給しつづけてきたこの国が、6年後にアナログTV放送を政治的な意図の元に打ち切ることによって、その命脈も断たれることになる。手工業的規模では残るだろうが、大量生産製品としてのブラウン管というものは確実に消滅する。メディウムを最終提示媒体ととらえるとき、TVを規定する条件をNTSCなりPALの規格とブラウン管に帰着させる見方も可能だろう。その両方が消滅するということは、すなわちTVの終焉であるといってもいい。写真も映画もTVに負けたということになっているが、あと6年で銀塩写真やフィルム投映式映写システムが消えうせるとは考えにくい。なんのことはない、TVをあっさりと超えて写真も映画も生き残っているではないか。もっというなら本も新聞も、サーカスや見せ物小屋だって。