写真とは世界を矩形に切りとること。これまで幾度となく聞かされてきたこの紋切り型の言いまわしは、画面内に入れこむ要素を制御することに写真撮影の勘どころがあると謳っているのだろう。フレームの内と外にあふれる多様な部分を画面内に収めるか追いだすかの取捨選択ということである。これは視野の広がりから任意の一部を切りとってくることができ、それは他の一部とも交換可能であるような、そうした均質な視野というものを前提している。候補となる対象を含む視野の一部分がそれ以外の部分とくらべて等価であってはじめて、入れるべきか入れざるべきか迷うという事態が可能となるのだ。しかしそれはわれわれの視覚の本来のありかたとはまったく異なる。われわれの視覚は視野の中心部分に色覚細胞と視神経が集中しており、その中心を絶え間なく移動させることによって広い視野をまさしく見かけ上獲得している。視野の範囲が広いように思いこんではいるものの、われわれがそのときどきに注意を集中させているのはごく一部でしかない。写真や写実的絵画を熟視するときのように画面のすみずみにまで注意の行きとどいた知覚のしかたをわれわれはしてはいない。それは写真や絵画のほうから逆に教えられる世界認識のありかたである。眼前の均質な世界像という理念は、絵画や写真に再現された世界をわれわれが現に見ている世界ととりちがえてしまうことからくる虚構なのである。
世界とはもともと切りとることのできるものなのではない。われわれが見ている世界とはこのまま受けいれるしかないものである。写真のように自由自在にトリミングしたりクロッピングしたりできる対象として与えられてはいない。そうであるかのように世界を見なしている点で「世界を切りとる」という教えは誤っている。ただ、この文言は肉眼で見ている時点で後にやってくる写真のように見て、写真の見えかたを先取りすることを強制するのだが、そのような見かたを技術として習得することはできる。撮影後の結果をなめるように見るのを、撮影前の段階でシミュレートするということは訓練によってある程度可能ではある。熟練すれば結果が読めるようになるということは、われわれの本来の世界認識とは異なる認識の作法を会得するということである。では、何のためにそのようなことをしなければならないのか。画面を意識的に作画することが写真上達の方法であり、「いい写真」が得られるからだ。結局のところは画面内をバランスよく構成しておさまりのいい絵柄に仕立てなさいという教育的な指導なのである。画面の整理などは限られた撮影の時間内に無理にすませる必要はなく、プリントの段階でやればいいのだが、クロッピングしてはならない、写真はフルフレームでプリントしなければならないという精神主義的で強迫的な戒律がそれを許さない。
自分が撮影した写真を見て、撮影の時点では意図していなかったもの、予想を超えるものが随所に写りこんでいたと驚くということはしばしば経験される。そもそもわれわれがファインダーやピントグラスの結像上で生起しているすべてのことがらを把握しているわけではまったくなく、主要な関心の対象しか見ていないというのをそのことは示している。「世界を切りとる」などという矯正を受ける以前には、何かを写真にしようという動機となるものは、何かしらの対象への素朴な関心だったのではなかったか。視野を四角い枠で切りとるなどといった意識はなく、単純に関心の向かう先だけを写しとっていたのではないか。いわば切りぬき処理された商品画像のように中心的対象だけに関心は集中しており、その周囲のあれやこれやを画面内に入れこむか否かなどというのはどうでもいい話であった。「切りとる」なんぞという、あたかもすでに目の前に広大な像の幕があって、そこからばっさり他を切って捨てるがごとき尊大な態度ではなく、ふと見つけた気を惹くものをそっと拾いあげる、あるいはつまみとる、という意識だったように思う。撮影された写真を見るときも、余計なものが写りこんでいようともそんなものは気にならなかった。中心的対象以外は目に入ってこないような、いわば意識の遠近法が働いていたわけだ。幼児の描く絵には、そのように自らの関心の対象だけによって構成された世界像を見てとることができる。
その後、制度内価値基準の刷りこみを受け、「写真の見かた」なるものを植えこまれて作画意識が肥大するにつれ、周辺のあれやこれやに気を配るようになるのだが、いわゆる足し算引き算を延々やっていると、対象への当初の関心が次第に薄らいでいってしまう。ビューカメラを使っていると、画面の制御を緻密に行うために作られている機材だけに、どうしてもそうなってしまう傾向がある。4x5のシリーズではずっとそうだった。対象が平面に近かったので、矩形の境界線を仮想するのがなじみやすいのだろうし、オールオーヴァーの性格があったり、黒フチつきでネガ全体を焼くことを想定していたり、画面が固定されている必要があったりと、遠心的な作業法にならざるをえない要素が多かった。
しかし、6x12では対象が画面中央にひとつしかないという、これ以上ないような単純な構図だということもあり、本来の視覚的経験に近い写真撮影を行っているように思える。画面の調整は多少必要ではあるし、撮影場所にさんざん迷ったりと、必ずしもプリミティヴな視覚を反映しているとはいえず、撮影対象自体へストレートに関心を向けた写真とはいいがたいのだけれども、「つまみとる」という姿勢、あるいはより強く「つかみとる」なのかもしれないが、眼前の対象へと求心的に相対しているように思える。
写真が対象によって左右されがちなものであることは確かだ。それとは違うことをやろうとしても、どのような対象であれともかく何らかの対象を通じてやるほかはない。対象の価値に写真の価値が還元されてしまうようでは話にならないが、対象次第で写真の内容は定まる場合が多い。それは何を見ているかを示すことになるからだ。それなのに「写真とは切りとりだ」などと、単なる画面構成の上手下手に矮小化してしまうような議論がいまなお横行しているのは、写真を職業的に教えている階層の人間が既得権益を守るために流布させているのかとさえ勘ぐってしまう。まあ、世間はどうであれ、画面構成に徹底するのもずいぶんやってきて、まだやりつくしてなどいないのだが、当面はそうではないものでいくつもり。