会場撮影。
Mamiya7、43mmL、NL120、f11、1/4-1/2。RTPII、f9-13、1/2。NPC120、f11、1/4-1/2。壁面二面が43mmでは収まりきらない。
何枚となく焼いたプリントの中から色調の揃った一組を選び出すという作業に時間がかけられず、暫定的にかけておいて会期中にさしかえるつもりだったのだが、結局数点しかできなかった。それさえもあまり満足のいくものではなかった。スポッティングもできなかった。いつも準備中には異様に要求水準が高いのに、一度展示してしまうと「これでいい」という気分になってしまうのだが、今回もやはりそうだった。疲れてしまうということもあるが、会場の壁面にかかった時点でもはや手を離れたという心境になるのかもしれない。
「インクジェットでやったらずっと楽だよ」と言われ、すかさず「写真なんかやめたらもっと楽になりますよ。金もかかんないし」と返す。眼力のある写真家でさえメディウムに対する反省的意識が欠如していることには気落ちもするが、そこまで世間的に顧慮されていないからこそ、あえてメディウムを問題にする意味があるのだと思い返す。しかしまあ、この手の落ち穂拾い的、ニッチねらい的アート業界内的生存競争生き残り努力ももう放棄してはいるのだが。だいたいアートじゃない。こちとらルンペンプロレタリアート
インクジェットなら色あわせが楽なのか。それは否だ。スキャンデータを印刷用にレタッチしたけれど、やはり色を合わせこむのは至難。特定の部位の発色だけを近づけるのならばすぐにできるが、階調全体の関係を崩さずに全体の色調を揃えるのはデジタル処理でもなかなか難しい。これほど発色が違うのは、レンズの使用部位が違うせいなのだろうか。広角レンズの第一面を見ると、広大なレンズ面の表面でコーティングの発色が中心部と周辺部とで異なって見えることがしばしばあるが、これが影響しているのだろうか。もちろん周辺光量低下の影響もあるだろう。あるいは単に露出の違いによる発色の差という、感材のほうの問題なのだろうか。はたまたハレ切り不足により画面外から進入した光線が、アオリの条件によって異なる影響を及ぼしているのだろうか。それにしても同じ画面内でも色が違いすぎる。フォトレタッチソフト上で選択範囲をたくさんこしらえて部分的に調整していけば合わせられるだろうが、選択範囲の境界線近辺で不自然が生じるし、そもそもそこまでいじくりまわす意味などどこにもない。そこいらの広告写真じゃあるまいし。
銀塩引き伸ばしで操作できるパラメータは基本的にはカラーバランスと濃度だけだが、デジタルレタッチではそれだけでなくコントラストや彩度も調整することができる。しかも覆い焼きなどというおおざっぱな手法によらず、意図する部位に適切に効果を与えることができる。この自由度はきわめて大きい。しかしそんな辻褄合わせに汲々とする日銭稼ぎ業務のくりかえしを何でこの場でやらにゃならんのだ。
色が揃わないなら揃わないままでいいのだ。問題は、その揃わなさ、3点の色調の推移をいかに説得的に提示するか、ということにつきる。3点の間である程度時間が経過して光線状態が変わっているのだから、色調が変わっているのは当然のことだ。対象を基準に揃えるのか、背景を基準にするのか、折衷か別の基準によるのか。ともかく、客観的に理解できるようなしかたでもって連続性を作り出すことが重要なのだ。それは必ずしも撮影時の条件を再現することではない。かつてアメリカ西部の国立公園設立に寄与したことで知られる写真教育者・写真技術啓蒙者は、プリントはネガの解釈/演奏(interpretation)だ、なることをいっていた。当時の写真に対する世間的な理解の程度に鑑み、加えて教育や普及啓蒙活動といったこの人物の活動範囲を考えあわせるならば有用な物言いではあったのかもしれないが、それは実際とは異なる。プリントは原板の解釈ではない。WORKSやDoPrintsあたりのレンタルラボには、色調を転ばせてシアンかぶりだったり浅すぎたりするようなプリントの得意気な量産者がきわめて多く、見たところそればかりといってもいいが、そんなものは「解釈」などではもちろんなく、もうだいぶ前にはやりも過ぎた、ただの売るための意匠でしかない。「表現」というのはずいぶん前から口にするのも憚かられるはずかしい語彙になっているが、その語に象徴される大時代的な「自意識」とやらの振りかざしに共通する姿勢がうかがえる。
ネガをプリントするとき、モノクロであれネガであれ、このあたりが標準的であろう、という濃度や、カラーの場合カラーバランスの頃合というものは確かにあると思う。客観的に成立するような、基礎的な訓練を積んだ者なら誰がやってもそのネガのプリントはだいたいこのあたりに収束するはず、という焼き具合がある。こういった規範は写真に限らずさまざまな技術体系に見てとれるだろう。これまで行ってきた4x5の撮影では、WORKSの人も認めるとおり「いかようにも焼ける」「基準のない」ものに近かった。人物もなく何ら基準色がないのだからまっとうな判断だ。これほど「どうにでもなる」ネガはそうはないはずだ。それでも、二回目の個展以降は一貫して、そのネガをいかに「偏りなく」焼けるかということに腐心してきたのだ。あのような絵柄であってさえ、色かぶりというものは認識でき、補正するべき偏差と見なすことができる。現実的な対象を撮影したネガであれば、たいていの場合、客観的に成り立つニュートラルバランスがあるのだ。人像や風景といった一般的な絵柄であればなおさら基準色が明確であり、模範的なプリントファクターというものが厳然として存在する。それを理解していれば、トーンが出そろっており、違和感なく見ることができるプリントというものを誰であっても焼くことができる。単なる技術と修練の問題だ。むろん裁量の余地というものは存在する。ネガの特性曲線に応じて、あるいは絵柄に応じて焼き具合のブレ幅はある。しかし所詮は「好み」の問題でしかない。あるいは受注プリントの場合「傾向」といったほうがいい。意図的に小細工をしようとしない限りは、プリントの焼きはそう大きくは変わらないはずだ。あるネガに対して正しいプリントの具合というものは、誰がやってもある程度定まってくるものなのだ。周囲の焼き込みを過度に行ったり、必要以上にコントラストを強くすることによって「プリントの名手」などと称されている大先生などは、そういった標準的な焼き具合から離れて特殊な焼きをするのがキャラになっているというだけの話であって、情緒的なモノクロプリントのキャラを好む層にはありがたい代物なのだろうが、プリントがうまいとかそういう次元ではない。それはただの色づけでしかない。カラープリントで極端にシアンかぶりをさせたりすることがオリジナリティだと思いこんでいる産業写真家とさしたる違いはない。演歌調とか何とか風の「演出」であって、オリジナルのテクストからまったく別のものを導き出すような「解釈」というものからはおよそほど遠い。好き勝手に妙ちきりんな読み方をすれば新しいとかいうものではない。
今回のプリントでも、試行錯誤する部分はきわめて大きい。しかしそれは「解釈(interpretation)」ではない。合理的な判断基準を持つ人ならば最終的に誰でもたどりつくような「解(solution )」をめざしながら、どちらに進めば行きつけるのかわからずに迷いあぐねてきたのだ。この「解」というものは、多次連立方程式の解のように、必ずしもひとつではなく、また一組でもない。今回のプリントであれば、前述した、「対象を基準に揃えるのか、背景を基準にするのか、折衷か別の基準によるのか」という少なくとも3つの「解」の基準があり、いずれを採用するかによって結果は大きく異なる。とはいえ、どの基準に従うにせよ、その基準をいかに満たしているかという点で判断することができ、この基準をわきまえていさえすれば誰であれ、当人の好みとは別のところでそのプリントの評価をすることができる。そのどれかを採用するべきかでも迷うのだが、判断基準が確立しさえすれば、かつそれをどれだけ満たしているかの評価能力があるならば、誰でもその達成は可能である。つまり、プリントには「正解」がある、ということだ。標準化可能なものなのだ。習得能力には差があるから、人によっては時間がかかるかもしれないが。その「解」への「解法」は、基本的に(印画紙が同じであれば)フィルター値と露光秒数の数値によって管理される。引き伸ばしレンズの周辺光量低下の補正といった最小限の焼き込みの必要はあれど、この程度はたやすくマニュアル化可能である。パラメータはデジタルデータのレタッチより少ないが、そうした制約の中で、今回の場合、特に船橋など日没にかかっている場合には、時間の推移によって色調がどのように連続しているのべきなのか、をひたすら考えることとなる。そもそも現実の再現ではない。色温度をいちいち記録してそれにあわせてもなんの意味もない。色温度の推移とは別に補正して知覚されているのは周知のことであって、視覚的印象はどうであったか、を回想するのだが、そんなものはあてにならないし覚えてもいない。結局、ニュートラルと思われる基準色をもとに、撮影者でなくてもこう判断するであろう、というもっとも適切な解を探ることとなる。それは「他人にツッコミを入れられないために」というような守勢の動機に発するのではない。それは、自分が外界の色というものを日ごろどのようにとらえているのか、ということを徹底して自覚的にとらえなおす機会なのである。自分が見ている色を他人がどのように見ているかについては何も知りえない、というのは繰りかえされた議論だが、このようなプリントのならべかたは、自分の色の見かたの記述について、相対的に追い込んでいくことによってある程度客観的な評価を得ることが可能なのではないか。
ネガからは無限の解釈を引き出すことができ、それらの解釈はすべてひとしなみに価値をもつ、といったものではない。もちろん多様な焼き加減は可能なのだが、客観的に見て説得力のある焼きというのは絞られてくる。突飛なことをして意味が出てくるとすれば、それが突飛であるためにほかならない。
カラーであれモノクロであれ、現実的対象を撮影したネガには落としどころがある。ラボのプリンターは特に指定がない限りそのような最大公約数的なプリントファクターで焼き上げるのだろう。一点だけならそれで充分なのだが、同じ条件で撮影した別のカットと比較するとその解答の妥当性がにわかに揺らぎだす。今回はカラーの銀塩引き伸ばし工程の限界に直面した気がする。いや、単に自分の力量の限界かもしれないが。
 
ともあれ、泣いても笑ってもあと一日。