道具を作るということ

何もないところからものを生みだしているとかクリエイティヴだなどという意識はいつもまったくない。写真を撮影しているときには何ものかを作っているとは思わない。すでにあるものを探しているだけでしかない。引き伸ばしでも似たようなもの。しかしカメラや機材を改造したり手を加えたり、あるいは展示用のフレームを作っているときには、自分がまぎれもなくものを作っていると思う。それも現実の「モノ」をじかに手でいじって作りあげていると実感する。どうということのない品物がそうした創意工夫によって道具や素材として意想外の跳躍を見せることがある。東急ハンズダイソーにはそのような品物がそこかしこに潜んで在る。
写真は平面として提示される限り見事にシステム化されている。誰でも用意された手順に沿ってことを進めていけば何かしらのものを仕上げることができる。動く恐竜の実物大模型を作るとかいった完全にオリジナルな造作では、すべての手順を一から編成していかなければならない。途方もない作業。工作道具自体から考案して、何もない、誰の手本もないところから何ものかを作り出していく、のみならず後続者の手本すなわち起源(origin)となってゆく、それこそがオリジナリティというものだ。写真にはそんな必要はない。いたるところ整地され舗装されており、どこへ行くにも道が通じている。絵画はあらゆる要素を一から作る点で写真よりオリジナリティがあるとかつて考えていたが、いまや、少なくとも現代美術の絵画はありすぎるほどある先行者を意識することから作られている。一般に「誰の手本もない」という事態とは正反対の位置にある。無論そのつどの問題の設定では先行者はない局面があるだろう。模倣の集積であり、なんとか風といったできあがったスタイルをベースとして生産されるグラフィックデザインとはまったく別である。とはいえ、オリジナリティを単純に語れるような分野ではもはやないように見える。
もはや写真において本来の意味でのオリジナリティなるものはない。黎明期の写真家はそれぞれが工夫を凝らして新たな目的のために新たな技術を開発していたわけで、そのころはオリジナリティにあふれていたのだが、これほど写真の技術体系が成熟したなかにあっては、ほんとうに見たことのないものなどない。写真のみならず「映像」なるジャンルもそうだし、映画もそうかもしれない。みなたいていは理念的なフレームも実体的なフレームもとうに確立していて、実体的なフレームの内側の濃度ないし輝度の配置の目新しさを競っているにすぎない。せいぜいあとはフレーム自体を増やしたり変形させたりというだけのことだ。だが、写真の道具をゼロから新たに構築するのではないまでも、ネガキャリアに手を加えたりカメラを改造したり、用途に合わせて作りかえるということは、既成の道具では対応しきれない何ごとかをなそうとしていることの証左であるのは確かだ。これだけ成熟し、すべての撮影分野において技術と機材がぬかりなく準備されているかに見えるメディウムのなかにあってなお、新たに道具をつくりださなければならない必要に迫られているというのは、それが撮影された内容のオリジナリティを保証するということには必ずしもならないにせよ、少なくとも道具そのものをみずから作りだしているという点に限っていうならばオリジナルであるというのは否定できないだろう。それは現代美術のフレーム内部でのオリジナリティ争いとは別の次元で、ものを作るということの本源的な部分に触れる営為なのではないだろうか。