ピンホールの前に遮光板をつけて上側の光をぎりぎりでカットさせる。ついでに遮光板と開口部の間に合板を一枚さしこめるようにし、開口部の保護板とする。塗料のせいでピンホール切りかえのスライドがますます固くなってしまう。内部にも遮光板をとりつけ、穴から入ったところでの反射光が散乱しないようにする。塗料を充填して穴をふさぐ。バックのまわりにも塗ったら箱からはずれなくなる。どうにかはがすがニスごと剥げている。内側を張り替える。底板は間に合わず。
8時頃快晴。だが駅に向かう途中で早くも迷い雲が出てきて悪い予感。9時45分東京テレポートについたときには巻層雲と高層雲。風も強い。しかし雲が高く流れない。フジテ*レビ前の空き地に行ってみると、車が並び人がわらわらいて「天然記念物 秋田犬博覧会」ののぼりが立っている。1時間ほど路上で寝て様子見。台場ではそこらで寝やすい。新宿区あたりのように植えこみの端の座れるところに背もたれを固定させたり、ベンチに手すりをつけたりして野宿者を排除するなどという「環境美化」対策はなされていない。なぜか。野宿者がいないから。住みづらいのは野宿者にとってだけではないような気がする。嘘で塗りかためたような地区。結局雲は晴れず断念して東海道線を下って駅のホームで寝たりして時間を稼ぐ。何しろ箱の改造で2時間くらいしか寝ていないので眠い。晴れたように思えたので13時頃桜木町。消えておらず東の空に増えるばかり。空の色も浅い。6X12の浦和NTTのような色なのだが、RGBーCMY系で記述するのが難しい。国立大ホールに展開するが予想されたとおり日曜で人通りもあり雲も消えず断念。帰りしなに何度も雲があることを確認して、今日は無理だ、と納得できるだけの理由を探しながら未練がましく移動するのもいつものこと。よく見ると黒アクリル二層で6mm厚もあるスライド押さえの部分でも光が透過している。ぺなぺなのパーマセル一枚にも遮光性が及ばないという事実。いずれにせよ今までのは全部やりなおしだ。こやつ底意地が悪いだけでなく、尋常ではない手間とそれ以上に暇がかかる。これくらい難物じゃないと誰でもすぐできちゃうからやむなしとはいえ、とにかく厄介。考えてみればエボニーのモノクロもカラーも6X12もはじめのころはみんなこんな調子で失敗の繰りかえしだったわけだし、いずれなんとかなるだろう。
だいたいの問題は解決しているはずなので、ピンホールが投影する対象の像以外の光をいかに除去するかということだけだ。光漏れと迷光と内面反射と回折との戦い。ピンホールを受光体に近づけていくと像倍率がどんどん下がり、受光体に接したところで倍率は1/∞となる。受光体から離さなければ像が形成されない。レンズはそれぞれ固有の焦点距離を持ち、受光体との距離がそれ以下になると実像は結ばれない。ピンホールやレンズと受光体との距離、実際にはその距離を保持するためのミラーボックスや蛇腹やレールといった機構による遮光された空間、というのは結像系の一部と見なしてもさしつかえないだろう。レンズは焦点距離以上の距離が受光体に対して保たれていてはじめて光学系として機能するのだから、焦点距離分の空間も光学系のうちに含まれる。つまり暗い部屋は光学系の付属物、カメラはレンズのおまけ、ということになる。そういうわけで写真にとってカメラは第一の要素ではないということがあらためて確認される。
それはさておき、無秩序に入り乱れる光線の中から、光の直進性を利用して対象の像へとピンホールによって光をいわば結束させるのがピンホールカメラである。そこでは屈折・反射・回折・干渉といった、直進以外の光の基本的な性質は結像のためには使われていない。回折と反射が影響を与えてはいるものの、画像コントラストを低下させ、結像の阻害要因となっているにすぎない。したがって、ピンホール写真とは光の直進のみによって形成された世界像と考えることができる。屈折光学系すなわち一般的なレンズをそなえたカメラで決定的な役割を果たすのは直進と屈折であり、反射が積極的に利用されるのはレフレックスカメラにおけるミラーや正立正像ファインダーのペンタプリズム・ペンタミラー、連動距離計のミラーや測光・測距系のハーフミラーなど脇役の位置に限られる。それらはフレーミングや露出決定といった撮影時の制御のための機能を担っているが、撮影そのものには関与していない。反射光学系を有するごく一部のレンズを除き、光路中に反射作用を利用する部分は一切存在しないのである。むしろ、レンズやボックスの中での反射は嫌われている。レンズエレメント表面での反射を軽減するためのコーティングの原理として干渉が活用されているが、1970年代にコーティングが広く使われるようになって以降の話である。つまり、一般のレンズを使ったカメラではもっぱら直進と屈折による世界像が得られるといえる。肉眼がとらえる世界像もそれと同様である。では、それ以外の光の性質、反射や回折や干渉や分光による世界像の可能性はないのだろうか。鏡というのは、反射による世界像をもたらす、もっとも原初的な光学器械である。ホログラムは干渉によって対象の立体像を生成させる。別の世界像の余地はどこかにないのか。われわれは左右の耳で立体的な音場を知覚しているわけだが、音のする方向を聴覚上で知ることができるのは、左右の耳で音の大きさの違いや到着時間のずれを聞きわけて方向を把握しているだけではない。それのみでは水平上の方向がわかるだけで、高さまではわからないはずである。われわれの頭部には、それぞれの形状に固有の複雑な音響の回折・干渉パターンがあり、長い聴覚正活のなかで周波数帯域や音源の方向に応じた音響の具合を視覚的に確認しながら学習していくことにより、音の方向を瞬時に判別できるようになる。光の波によってそのような空間体験ができないものか。