Gitzoの旧型自由雲台をいじりながらあれこれ迷っていると、ティルト角度、つまり上下方向のアングルを変えたいだけなのに左右の傾きや画面中心の向きも変わってしまってやりづらい。ある程度精密な角度出しが必要な用途では3ウェイ雲台のほうが使いやすい。しかし3ウェイ雲台ではどの製品も真下に向けた俯瞰はできるようになっているが、真上に近い仰角に対応できる機種の心当たりはない。真上を撮影する角度をとらせようとすると、ティルト角度を調整するパーン棒が三脚につっかえてしまい限界がある。カメラを逆向きにとりつければ俯瞰の状態で真上を向けられるが、そうするとティルトのパーン棒が画面に写りこんでしまう。
このことから察するに、通常写真は水平から俯瞰にかけて用いられるのが一般的で、仰角で使われることはあまりないのだろう。俯瞰という字はしばしば見るが、仰角というのはなかなか見ない。上を写したって外なら空だし室内ならただの天井。天体撮影や天井画の撮影でもない限り、真上近くの上方にカメラを向けるという局面はそうそうあるものではない。
そもそも70°近辺以上の見上げ角度をとる姿勢は文化的に必要とされてこなかったのではないか。見せたいものを頭上に配置するということは通常なされない。プラネタリウムでは天を見せられるが、あの場合横臥して正面を見ているといったほうが近い。子供時分にはいやおうなく上を仰ぎ見させられるが、上からものをいわれるはあまりありがたくない事態であり、成人になれば日常的にはなるべく避けたいものだろう。だいたい真上を見ていて何か落ちてきたら、目に対する危険が大きい。上を向くということは晴天の場合太陽が視野に入る頻度が高く、視線を固定したまま無限遠に焦点を合わせると、虫眼鏡で紙を焼くのと同じ理屈で網膜に損傷を与える。「お日さまを見てはいけません」というわけだ。ところが子供の頃太陽の残像が目に残るのが好きで、しょっちゅう太陽を見ては視野一杯に残像をこしらえていた。あれでだいぶ網膜がやられたに違いない。上を向いて歩こう、って下見て歩かなきゃ危険だよ。そもそも人間の体のつくりからして、下を見るのはたやすいが視線を上に向ける姿勢には適しておらず、また目の構造上も下方視野のほうが上方視野よりも広い角度がとられている。それは農耕にしろ狩猟にしろ……なんて話はどうでもいいのだが、ともあれ、写真撮影において上方の急角度にカメラを向ける頻度が少ないということは、それに対応した機材の乏しさから相当の蓋然性をもって確認される。
そんなことをぼーっと考えながらGitzoの4型あたりのごつい三脚の出物はないかとYahoo!オークションの出品画像を見ていたら、ラショナル平型雲台の画像に目がとまった。ティルトを調整する棒の軸受けのネジ穴は別部品がはめこんであって、周囲にギザギザの刻みがあり、とりはずせそうに見える。前後ともそうなっている。これはひょっとして前後が入れかえられるようになっているのではないか。そこでG1370Mをひさびさにとりだし、ネジ穴部分を回そうとするが固い。底板用に買った鉄板をノッチに入れてこじあけようとしたら曲げておシャカにしてしまう。プライヤーで回転させ抜いてみたら大正解。首尾よくティルト棒を前側から差すことができ、90°までの仰角がとれる3ウェイ雲台の一丁上がり。平型雲台はティルト軸がパーン軸から離れているので、真上に向けてもティルト棒が三脚本体にぶつかりにくい。ただ、三脚がGitzoの5型など雲台の乗る部分が広く脚のつけねが開いている、いわば骨盤が広い機種だと難しいかもしれない。また一般の3ウェイ雲台と違ってスイング軸よりティルト軸が上にあるため、ティルト角度を出した上で水平方向の傾きを調整しようとすると、ねじれ、つまりヨーが出てしまうのがやや難。しかし逆に、左右の傾きを補正してからティルトする分にはヨーフリーとなる。これは一長一短。今やっている内容からすると逆のほうが便利な局面が多いような気がするが、使ってみないとわからない。90°下向きの真俯瞰ではレベリングで光軸を左右横に振る動きになるのでこれはこれで便利。Gitzoの背の高い雲台も含めて、ほとんどの3ウェイ雲台はレベリング軸のほうが上なのでその点では有利なのかもしれないが、ティルト棒を前後差しかえるといったことはできず、単純に前後逆にしてカメラを乗せると今回のような用途ではティルト棒が画面に映りこんでしまう。Manfrottoのギアヘッドなら、長いシャフトがないので前後逆にすればひょっとすると可能かもしれないが、ギアノブが反対側を向くのは使いづらそう。手持ちのGitzoでこれができるだけで充分。また水準器が回転座部分にあるので便利。何度も落としたり倒したので精度は狂ってるかもしれないが。
ティルト棒がうしろに張りだす状態になるので、運搬時には邪魔になる。短いティルト棒がないかとKFCに問いあわせるが、さすがにそこまでは用意されていないようだ。パーン棒と差しかえることもできない。まあここは我慢することにする。長いほうが調節はしやすい。このような前後の差しかえは本来想定されている使用法ではなく、動作の保証ができないというのがKFCの回答。まあ正規代理店としてはそういう反応になるだろう。しかしわざわざ部品点数を増やしてあるのだから、コスト上昇に見あうような理由がないはずはない。ネジ締めつけのフリクションを調整する機能があるらしく、加工上の理由もあるのかもしれないが、設計時点で仰角が必要な局面への対応まで見越していたと考えられるのではないか。Gitzoの雲台は、やれ動きが固いだやれブレやすいだ微調整がしづらいだ止まりが悪いだ、と何かにつけ評判がかんばしくなく、日本人の要求するすみずみにまで及んだ完成度には欠けるのかもしれないが、さすがよく考え抜いてつくられており、設計のオリジナリティと合理性、先見性は国産より一歩先んじている。
こうしたこまごまとした現実の総体が写真におけるメディウムだと思う。ここでいうメディウムとは現実にある道具と手業がすべてである。
メディウムとジャンルを明確に分かつものは何か。なぜメディウムなどという絵画では強くバイアスのかかった概念を持ちだす必要があったのか。
メディウムとはマテリアルとデバイスとプロセスによって一意に決定される。人によって定義の内容に幅はあるかもしれないし、判断に困るような事象もときおり出現するが、それは定義の不備であって解決可能である。しかしジャンルにおいては定義は曖昧で境界は不分明である。メディウムとジャンルということを言いはじめた10年前には、現代美術内での写真ブームなるものがあり、キーファーのパクリやリヒターのまねっこが大量に発生した。「写真を使っているが美術家である」という、日本以外では意味があるのかどうかよくわからない自己同定が多発した。当時おびただしく量産された写真にペインティングしたものは写真なのか。現代美術の画廊や現代美術館で展示される写真は写真なのか美術なのか。それをあえて分かつ必要がないのならいっしょくたでいいだろうに、現実には写真と美術のあいだには社会的に奇妙な垣根がある。だったらきっちり白黒つけてほしいものだが、それらを区分するための根拠を考えてみても、「美術の文脈で提示されているから美術」とか「本人が写真と言っているから写真」というような曖昧な基準以外にはない。現実にはジャンルの壁というのはきわめて厚いのだが、ジャンルによっては明確な線引きはできないのである。
当時腐れインテリがこぞってもてはやした自称「天才写真家」とかいう芸能人が「日付がなければ写真じゃない」などとフカシたり、カメラを使って普通に写真をやっているのに「こんなのは写真じゃない」などといわれるという事態に直面させられ、なら写真とは何なのかと問うてみても納得のいく返答を得られたためしがない。そこで明確に写真なるものを規定すべく、「写真とは最終提示媒体上で感光作用により形成された画像のことである」と定義したのであった。この定義の妥当性は実のところどうでもよくて、メディウムとしてしか写真と写真でないものとを明確に区別することはできないという点こそが重要なのである。
その後メディウムとジャンルという観点を何人かに話すなかで、誤用とはいわないまでも、当初の設定からはずれた用法で使われたりして、メディウムとジャンルという問題設定が一人歩きしてしまったようないきさつもあるのだが、そもそもは現実の必要があって編みだされたものなのである。その必要とは、ジャンルによってたつことのできない人間が、それでも写真によりどころを求めるときに、ジャンルとは別に写真を基礎づける足場に対する必要であった。
ジャンルというのは内容によるものでしかない。歯切れが悪いのだ。「文化」なるものを扱おうとすればそうならざるを得ないだろう。文化に対置されるべきは「技術」である。これこそが現実的かつザッハリッヒに語ることのできる対象である。
メディウムとジャンルというのは、質料と形相とか形式と内容といった古くからある問題のパラフレーズではない。理系と文系というのはちょっと近いかもしれないが、メディウムには経済的要素も必然的にからんでくるのでそうも言い切れない。あくまで属性に過ぎないが、定量的に扱えるものと定性的に語るべきものとの相違と考えるのは妥当かもしれない。写真を定性的に語るのはいい加減もう聞き飽きた、徹底して定量的に取り組むことを通じて何かが見つかるのではないか、と思ったわけだ。これがまだ現役の編集者だった10年前しきりに考えていたこと。