写真の終わりを嘆く前に思い出すべきこと

写真が終わるとか死ぬだとか、もう少し批評がまともに機能していると思われる絵画やら映画やら文芸といったジャンルではわれわれの出生前から幾度となく語られてきたような話を飽きもせず繰り返している人びとは、一度版画のことを思いおこしてみるといい。このジャンル/メディウムこそまぎれもなく長期低落傾向にある。かつては日本の美術を代表するジャンルとして、世界水準で評価が得られる数少ない分野であり、国内美術のなかでもある程度の地位を与えられていたが、今やコンテンポラリー・アートの文脈ではほとんど見向きもされず、旧来より盛んだった各種グループ展は公募団体展と同等に見なされている。国際市場で売れていた版画とは日本趣味に訴えるものである。工芸や現代美術や写真で売れ筋の傾向と同じ。数世紀前から今に至るまで何ら変わりがない。まあこちらはといえばいまだにヨーロッパの古い街並の写真なんぞをありがたがっているのだからどっちもどっちだが。そんなみやげもの的工芸品は別としても、版画の国内市場は縮小する一方で、画廊は減少し、アブク景気の時期に徒花のように高騰した価格は今や見る影もない様子。 かつて版画を買っていたコレクターは、価格帯やエディションという概念の共通性、額装のなじむ平面であることなどから写真へとシフトしていると聞く。だが同じサイズであれば一般的に版画より写真のプリントのほうが高い値がつけられている。版画のほうが外注プリントの写真などよりはるかに手間暇かかっているにもかかわらず、だ。美大なり専門学校なり、教育機関で版画の講座を持っているところは写真よりずっと少ないだろう。 美術教育の一部の現場では、いまさら版画をやるくらいならデジタルカメラフォトレタッチソフトとインクジェットプリンタの操作に習熟することを推奨しているという。いわゆるアーティストとしての制作人口も写真よりはるかに少ないと思われるし、潜在的な層も含めれば比較にならない。写真雑誌らしきものは各種あるが、版画専門誌として残っている商業的定期刊行物はおそらく『版画藝術』一誌のみ。競技人口・購買人口・流通業者・教育機関・ジャーナリズムといったジャンルに属するあらゆる要素を、写真は版画から収奪して拡大していると見ていいだろう。子供にペンやら鉛筆を与えればほっといても絵を描くし、授業中の暇つぶしの基本は落書きである。絵画はわれわれの生活に根づいているが、版画ではそうもいかない。絵画が消えるとは考えにくいが、版画の消滅には現実味がある。
ここまではアートにおける版画というジャンルの話。 ではメディウムとしてはどうか。なお、当座の版画というメディウムの定義は、版を用いて最終提示媒体に刷られたもの、ということにしておく。この場面での写真の定義を述べておくと、なんらかの対象ないし現象を視覚的に再現した画像のことであり、そのような写真を可能たらしめる現実の諸条件の総体が写真におけるメディウムである。一方で版画なり写真をジャンルとして明確に定義することはできない。社会的に版画なり写真として通用しているものをそのように呼ぶ、それ以上どうにも規定のしようがない。元来、ジャンルとはそのように不分明なものだからである。
ついでながら、内容のよしあしとか質の高低とかジャンルとしての勢いなどというものも、メディウムとはまったくかかわりがない。したがって、最近の写真はつまらないから写真ももう終わりだ、とかいった与太話はメディウムの盛衰という議論とはさしあたりまったく別物である。
そしてまた、ジャンルはどうだか知らないが、メディウムには本質やら真理やら深奥やら神髄などといった大仰な代物はない。それは人が勝手な都合でこしらえただけであり、メディウムを構成する現実の機材や印画紙や技術にそんなものがあるわけがないし、総体としてのメディウムに貼りつけてみたところで意味がない。むろん個々の道具には開発時の意図や設計方針があるが、それを逸脱して設計者の思いもよらなかった用途や局面で使われてこその道具である。そこには途方もない自由がある。ここでメディウムについて規定する際には定義として述べられる。定義は対象に内在するのではない。定義とは必要に応じてそのつど設定しなおすことができ、可搬的に入れ替え可能なプロファイルのようなものである。プロファイルいかんでその後の作業工程が左右される。しかしプロファイルとして機能するためには必要とされる情報と手順を満たしていなければならない。定義とは便宜的な約束ごとであり、特定の定義を墨守しなければならないといういわれはない。とはいえメディウムの定義には相応の説得性を備えた根拠が必要であって、勝手な定義を言い放ってしまえばなんでもかんでも写真としていいくるめられるというほど安直な話ではない。
版画のメディウムとしての定義は、なんらかの版を使って紙などの提示媒体に転写された画像とさしあたっては措定できる。版を使っているということをもって版画であると見なすわけだ。複製可能であることを版画の身の上と考えることもできそうに一見思えるが、モノプリントと呼ばれる一点物の版画は特殊な存在ではないから、複製可能性をもって版画の定義とするのは難しい。そこで、近年のデジタル出力をどうとらえるかという話となる。最近あまり見かけなくなった昇華型などインクリボンを使う方式は、まだ版画と呼べる要素がわずかなりともあったかもしれないが、インクジェット出力には物としての「版」を使う要素はいかなる場面にもなく、もはやこれを版画というメディウムに含めるのは無理がある。複製が可能であることを理由にインクジェット出力を版画と呼ぶのであれば、プラスティックのプレス部品や射出成形品といった複製品のほうが物理的に圧を加えている分まだしも版画に近いという気がするし、そこで平面性を版画の条件としてもちだすのなら、写真も複製可能な平面画像なのであるから、写真と版画のメディウムとしての弁別がしがたくなってしまう。いずれにせよインクジェット出力は版画からは遠い。にもかかわらずインクジェット出力をも版画と称するのであれば、もはやメディウムについての議論ではありえず、ジャンルとしての版画をめぐる話でしかない。
さてメディウムの実際に戻る。家庭用印刷の最大の機会であるところの年賀状印刷市場をかつて席巻していたプリントゴッコは、デジタル化まで果たしたものの、今やインクジェット機に押されて苦闘しているらしい。 デジタル化によって壊滅的損害を被ったのは銀塩写真ではなく、むしろ版画なのである。 かつて手作業で版画をおこなっていた用途は写真とそれに付随するレイアウトやタイポグラフィに流れている 。パソコンの普及によって、画像をハンドリングする層は確実に拡大しているけれども、それはかつては芋版やガリ版をつくっていた層と重なる。ガリ版すなわち謄写版というのは30年前に学校教諭の大半が運用していた技術であり、生徒も必要に応じて習得していたし、個人用途の印刷もみなこれでまかなわれていた。同時期に自家暗室で引き伸ばし作業を行っていた人口やその生産数量とは規模がまるで違う。それがコピー機ワープロ専用機に、そしてパソコンとプリンタに根こそぎもっていかれたのだ。画材屋でも版画用品の売り場は片隅に追いやられて見える。 版画の凋落の過程は印刷の衰退とも並行しているだろう。かつて版画とは産業のメディウムであったが、産業としての面は大量生産可能な印刷という形式に移行した。凸版印刷というプリミティヴな形式が平版つまりオフセット印刷というより複雑な工程の形式に移行していくにつれ、図版はむろんのこと文字組版まで写真植字という写真技術によってまかなわれ、刷版も写真的に焼き付けられ、製版工程のすべてに写真製版技術が抜きがたく組みこまれるようになった。同時期に写真製版方式による美術版画が広く行われた。印刷と版画に写真が侵蝕していったのだ。
前世紀が終わる数年前、オンデマンド印刷機が市場に出はじめた頃は、輪転機は別として平台のオフレット印刷は遠からず駆逐されるだろうといわれていた。予想に反してオンデマンド印刷は普及しなかったが、それはオフセット印刷が踏んばったというよりも、オンデマンドが必要な部分はwebに代替されてしまったと考えたほうがいい。かくして印刷業界は体質転換も図れずに際限のない価格競争で疲弊している。何しろ印刷業は国が認める特定不況業種である。デジタル技術は印刷業界にDTP化という業態の変革をもたらしたが、それは写真や広告といった関連業界でのパソコンの普及を促進してwebへの移行を準備し、結果として印刷業界の首を絞める結果となった。版画のみならず印刷までも、もはや産業ではなくなりつつある。版を使う再現様式は、デジタル技術によって踏み台にされ、いずれ搾りつくされる。それを吸いとって肥えている分野のひとつは写真なのである。銀塩写真からデジタル写真へと業態は変化しても、対象の再現画像としての写真が産業の座から引きずり降ろされそうな気配は微塵もない。むしろ、あまりに普及しすぎて特殊な技能を有する職種が必要とされなくなり、写真で生計を立てていた層が消滅するということはあるかもしれない。しかしそれはモールス信号の打電士が職を追われたのと同じような、産業構造の変化にともなう所得の移転というべきであって、通信に関わるある種のスキルが衰退しても通信という産業は依然として拡大しているのと同様に、写真をオペレートする業種が消え失せたとしても産業としての写真の衰微とは別の話である。メディウムの相で見ても、 版画の側からすれば写真は隆盛を極めていると映るに違いない。まだぴんぴんしておる。当面死にゃせんて。だいたいが「死ぬ死ぬ」と騒いでいる人ほど死なない、ほんとに死にそうな人にそんなことを言っている余裕はない、というのが世間での通り相場である。
しかしながら、版画が下火だからといって写真やいわゆる「映像」や、そのときどきに流行だとされるメディウムににほいほいと鞍替えしていくような連中には背を向けて、こつこつと続けている人々はいつの時代でも必ずいるし、あえて逆風の吹くメディウムや様式を選ぶ人のつくるものにこそ見るべきものがあるのは当然である。