青空を前にかっちりとコントラストが高くエッジはキリキリとシャープ。よどみや曖昧さは微塵もないとことん明快な見え。フィールドはいい。高揚する。わがなすべきはこれのみ。別に撮影などしなくても、生の現実の中を歩き回ってこの光線条件のもとで対象が明晰に見られればそれで充分という気分になる。何しろ写真で見るよりも当の対象をじかに見たほうがはるかに爽快なのだし、日々直面しているこうした視覚的経験そのものは写真になりようもない。せっかくの好天を対象探しで歩き回って潰すくらいなら、天気の悪い時期に下見して物件と条件を把握しておいて天気のいい日に備えておいたほうがいいのでは、と思わなくもないのだが、それじゃ調子が出んのだ。撮影できる可能性が薄いのにだらだら歩く気も起こらんし、ああした見えを体験するためにわざわざ出かけているところがあるからだ。それゆえにこれだけヒット率が低くても別に苦にはならない。
何度となく繰り返していることだが、写真は一般に再現である。ここに鑑賞対象としての写真というジャンルの限界と、写真というメディウムの無類の強みがある。
雄大な風景の写真を撮影したのに、もとの風景のような迫力はなく見劣りして興ざめだという毎度おなじみの話。あたりまえのことだ。写真とはそうしたもの。写真に可能なのは結像の再現であって、風景全体の再現ではない。ましてやその光景を目の当たりにしたという経験が再現できるはずがない。視野角の制限だけの問題ではない。再現である以上、もとの対象は超えられない。写真をやっていていつも思うのは、対象がなければはじまらないということだ。幾度となく書いているが、それだけつねに意識させられているということである。対象が現実に眼前にあってはじめてなりたつ。再現である限り当然のことである。所詮似せ物であるから、もとのものよりさまざまな点で劣っている、というより比較のしようもないほどみすぼらしい。そのうえ、どれほど新奇な対象を見つけてこようと、写真として提示される限りは再現のフレームが同じなのでいずれ飽きがくる。以前も書いたたとえだが、串揚げの食べ放題で、どれだけ中身が変わっても、それに対するパッケージ、フライの衣に粘性の高いソースやらポン酢やら粗塩をつけて食するという食べ方が一緒ならばじきに食べ飽きるのと一緒である。あるいは寿司や刺身でどれほどネタを変えても寿司だけではうんざりするのと同じこと。高級寿司はどうだか知らないし少食な人は飽きる前に満腹するということもあろうが。どんな対象を持ってきたところで、平面上に矩形やら円やら楕円やらで区画された範囲内での結像の再現という形式は変わらず、総体として与えられる視覚的印象は似通ったものとなる。そのフレームをはみだすことはできないのである。
再現では限界があるのだ。アカデミックな西洋音楽では、20世紀以降新たに産出される曲目の市場価値が次第に下落していったために、過去の曲目の値付が相対的に高騰してゆき、かねてから進んでいた作曲と演奏の分離が一層進行し、新しい楽曲を提供するある種の製造業として不可欠の役どころの作曲家から、いわば小売業として先行する資産を再生するだけの立場の演奏家へと世間の関心の中心が移っていった。そして次々と繰り出されるにもかかわらず次第に大方から見放され値崩れしていく新製品に見切りをつけ、演奏家固有のスタイルや解釈で過去の遺物に新しい衣裳をまとわせて使い回すという販売戦略の転換により、ジャンルの延命が図られた。しかし人口に膾炙する有限数の曲目について斬新な解釈などというものがそうそう可能なはずもなく、いずれたいていのことはやりつくされ、残るは落ち穂拾いと縮小再生産ばかりとなる。あらかじめ用意された楽曲を演奏者が独自に解釈した上で演奏する、そうした図式で産出される音楽とはつまるところ二次的な再現芸術でしかなく、オリジナルから独立したまったく新たな価値を創出できるわけではない。再現とはそういうものだ。
現代美術では再現的メディウムは今や時代遅れと見なされているように思われる。いわゆる映像でさえ、最近はどうだか知らないが4、5年前にはすでに、誰もが安直に量産するためにあまりにあふれかえっていて、食傷気味の風潮になりつつあったような気がする。印画紙という提示体の見えも一緒なら、ディスプレイの形状やプロジェクターをじっと見るという姿勢もみんな同じ。中身がどれだけ違おうと、そうした舞台仕掛けそのものが経年劣化してきているわけだ。そうして今もてはやされほめそやされているのは、再現ではないオリジナルの見えをもたらすような体験型の展示である。生であることの価値が高騰している。そりゃそうだろう。ネットで見られるような画をわざわざ出かけていって画廊で見たり金払って本で見ることから人が遠ざかるのは自然のなりゆきである。写真は写真や印刷やweb上の画像で再現できる。写真や動画では再現できないような、その場に行くことでしか体験できない仕掛けのほうが衆目を集めるし催事での受けがいいとあって、ギミックを凝らした見せ物小屋的展示へと売り手は一斉になびくこととなる。再現の価値は長期下落しつつある。そのかわり、旅行してじかにものを見たりするような生の体験の価値は上がっていくだろう。
視覚芸術という親ジャンルでは再現はすでに山を越え、下り坂に入っている。とはいえサイト・スペシフィックな展示やインスタレーションや屋外展示のように観客参加型の展示も遠からず一時期の流行として廃れていき、体験型アートはいずれ資源が枯渇してまた別の様式が求められることとなろう。見たことのない新しいものを追求する限り、そうした隘路にぶちあたる。
だが、世間一般の人々を見てみれば、いちいちそんな新しさなど求めてはいない。Jポップで生き残っている連中を見ればわかるとおりだ。似たような調子でちょっとだけ違う味付けのものを量産し続ければ客は買い続ける。そうしたひとびとにとってみれば、新しいものの飽くなき追求などむしろ疲れるばかりで、なじんだものの際限なき再現のほうがずっと居心地がいい。彼らは新しい味を求めて世界各国の地方料理を果敢に食べたりしない。現に小規模なスーパーではタイ料理の調味料さえほとんどない。カレーといえば大多数の好みはあいもかわらず、長時間煮込んでスパイスの香りなど抜けきったような、幼児期から食べ慣れている甘ったるい欧風カレーばかりである。世人は保守的で急激な変化を嫌う。それは決して他人事ではなく、われわれにしても局面が違えばそうした性癖を発揮する。いつも旅をしているのが心地いいという人は多くない。たいていの人間にとって、旅や儀式やぜいたくな消費というのは「たまにはこういうのもいい」程度の非日常的なイヴェントとしてのみ価値を持つ。同じものをいつでも何回でも見られるのがいい、そういう大多数の人々には、いつものなじんだ顔が喋り歌う再現的映像が最上の娯楽である。最大の需要があり繰り返し繰り返し再現され続けるのは人の顔なのだ。それを倦まずたゆまず果てることなく供給し続けられるという点で、再現的メディウムの特性は他のいかなる提示形式よりも世人の要求にかなっている。最強だ。
写真は一般に見たものや起こったことの再現でしかない。それを見たという体験そのものの再現ではない。あくまで結像の再現にすぎない。必ずワンクッション挟んでの提示となるから、反省的な意識作用が介在することとなる。このあたりに、記憶やら追想がどうしたとかいったおそろしく陳腐で退屈で湿っぽい決まり文句が写真についてしばしば語られる所以もあるだろう。鑑賞対象としての写真は、生の体験の直截さにはかなわない。ライヴのファナティックな熱狂にはとうてい及ばないし、ジェットコースターのように体ごと物理的に揺さぶられるような仕掛けにも勝ち目はない。再現である限り、単純な興奮とは懸隔があり、一歩引いた冷静な観察とならざるをえない。写真というメディウムがつねにそのようであるということではないが、鑑賞対象としての写真というジャンルに限っていえば、概してそうなりがちな傾向はあるだろう。刺激に訴える写真というものはあまた存在するが、もとの対象の刺激に乗っかっているだけの話であり、もとが与える刺激にくらべればだいぶ目減りしている。所詮は再現でしかないのである。ならばとことんさめきった上で、その反省的な意識の度合を徹底させていくしかない。展示という形式や鑑賞という受容態度は元来興奮や陶酔とはなじまず、そうした評価軸ではスポーツやら音楽といった他の娯楽ジャンルにおよぶべくもないのに、そうしたジャンルに伍していこうと躍起になっているかのようである。そんな流れになど棹さすことなく、ただ内省を冷たく研ぎすましていくばかりだ。