再現という視覚的メディウムの原理は、音楽における調性になぞらえることができるのではないか。
芸人の平均寿命は短くなる一方で、30年も前だったらひとつの芸でずいぶん長い期間食えたものだが、近頃ではほぼ1年で賞味期限切れとなり、大多数は次へつなげられず廃棄処分という末路を辿るようになってしまった。お笑い芸人が一時の人気者で終わるか、ある程度登りつめて長期にわたって稼ぎ出せるかの分岐点は、オリジナルなものとして提出された芸なりつかみのギャグなりが一時の流行で終わってしまうか、長く話芸として回転させられるキャラの基盤となりうるか次第であろう。それを満たした上で運よくある程度のポジションにおさまり、切り盛りの能力と政治的立ち回りの才覚さえあれば、次第に往時の勢いを失い、時流とずれ、抜け殻になっても名前だけでつないでいける。美術界となんら変わりない。
シェーンベルクが12音音楽を着想したとき「これで向後100年のドイツ音楽の優位が保証された」と語ったのは、彼がこの着想を、一時的な様式で終わる技法ではなく、アカデミックな西洋音楽界、つまりアカデミズムが相手にしお墨付きを与える対象と見なすような条件を備えた音楽家集団の構成員がすべて共有でき、あらゆる作曲の基礎として普遍的に活用できる根本原理となると考えていたということだろう。天才的な発想なのだが個々の楽曲で一回限り使われてそれで終わりというものではなく、ひとりの作曲家の商標どまりの様式でもなく、対位法や和声法に匹敵する、数世代にわたって豊かな枝葉を実らせるべき幹とみなしていたわけだ。しかし100年後のこんにち、和声法のように誰もが準拠するような生産基盤とならなかったのはもちろん、無調音楽の単なる初期形態として、音楽史上の一派の特徴的技法程度の評価にとどまっている。さまざまな若手タレントをいじって使い捨てながらみずからは司会者として君臨し続ける大物芸人が臨機応変に行使する才能、それをさらに超える「ボケ」「ツッコミ」のシステムのような永続的規範としてブチ上げられたにもかかわらず、実際は泡沫芸人のすぐに飽きられるネタどまりだった、というようなものだ。それどころか、シェーンベルクの目論見とは逆に、たちまち歴史化して古くなり使い捨てられるという事態をアカデミックな西洋音楽にもたらしたのである。確かに彼は12音音楽によって、確固たる原理をアカデミックな西洋音楽に導入した。それは対位法や和声法にかわるべき、音楽の内容を律する原理ではなく、オリジナリティと新しさによって個々の音楽の価値を評定し、内容でなく理論的フレームワークによってジャンルを統制するという運動原理であった。ほぼ同時期に出現した美術におけるコペルニクス的転回と同様に、アイディア勝負の一発花火を打ちあげては散っていく意匠の変転の端緒となったのだ。長期にわたり安定的な楽曲の産出を可能にするべく彼が開発した基盤は、皮肉にもかつてであれば一生それで食えたであろうアイディアを一度限りの消耗品としてしまうような音楽の短命化をもたらしたのである。きわめて20世紀的な使い捨て型生産活動の嚆矢だったのだ。
アカデミックな西洋音楽が調性を放擲したとき、実はアカデミックな西洋音楽のほうが調性に見捨てられていたのである。固定的なリズムもそうかもしれない。アカデミックな西洋音楽はみずからが培ってきた大伽藍から追い出された。しかしもちろん音楽とはアカデミックな西洋音楽だけではない。アカデミックな西洋音楽が数世紀にわたって築きあげた調性やリズム構造という強固な技術体系をそっくりそのままもらいうけた大衆音楽は、たちまち大輪の花を咲かせることとなる。そしてアカデミックな西洋音楽というジャンルの楽曲産出部門は、現代音楽と呼ばれて、調性に支えられた遺産を反復再利用し続ける再現芸術部門から隔離され、やがて権威の低下と版図の縮小を余儀なくされていく。
こうした調性と音楽との関係は、再現と視覚メディウムとの関係にほぼ重ねることができる。アカデミックな西洋絵画および彫刻が見たままに近いことをよしとする再現という根本原理を放棄したとき、あとに残るのはアイディア勝負の死屍累々であった。そして再現というきわめて国際競争力に富んだ強力な原理から出奔してしまったアカデミックな西洋美術は、いまさら何もなかったかのような顔でその楽園に戻るわけにもいかず、次々と新機軸を繰り出すことで自転車操業し続けるほかなくなる。こうして開けられたパンドラの筺からは、ありとあらゆる鬼面人を驚かすおぞましい仕掛けが飛び出しまくることとなる。一方、アカデミックな西洋美術が長い年月の中で編み出してきた再現の技法の膨大な蓄積は、イラスト、写真、映画、TVといった、当時アカデミズムの縄張りではなかった、より「下位の」ジャンルで存分に使い回されることとなる。再現の王国を全面的に引きうけて大衆的な人気を獲得したマンガや写真の隆盛にくらべ、同時代のアカデミックな西洋美術、つまり現代美術はじり貧を強いられることとなる。
再現という形式の競争力の強さは西洋音楽の和声法やリズム構造以上であると言っていいだろう。西洋音楽がこれだけの覇権を果たせたのに対し、それに劣らぬ歴史と体系性と豊かさを持つインド音楽が世界標準となりえなかったのは、20世紀前半における西洋の軍事力と経済力の強大さに負うところが大きい。西洋の科学文明の圧倒的優位があったからこそ、東洋諸国はせっせとその文化を輸入して追従に励んだ。西洋音楽は西洋文明に付随するものとしてグローバルになりえただけのことで、東洋諸国の音楽文化が西洋音楽に対して価値が劣っていたり人口に膾炙する要素が少ないということでは決してないはずである。ことと次第によっては、インド音楽が世界を席巻する歴史もありえたはずだ。「音楽は国境を越える」などという常套句で隠蔽される西洋音楽の世界共通語化の勝因は、列強諸国の軍事的・経済的支配、さらには白色人種の姿形や身長、といったさまざまな要素に帰すことができるだろう。むろん西洋音楽の体系そのものの合理性と完成度、または教育方法の巧みさもあったのだろうが、音楽という文化そのものの価値の比較は相対的なものとしかなりえない。西洋音楽が他の文化にくらべて優れている、などと主張することはできないし、内在的競争力もそうは変わらないように思える。
しかしながら、西洋絵画はカメラ・オブスキュラで得られる像を参照することにより、線遠近法・明暗の描写法・理論的な色彩体系に基づいた客観的な再現法を獲得した。それが近代になって発明された写真に近似していたことにより、他の文化圏における視覚的再現の様式よりも優位にあると保証されてしまったのである。日本に洋画が定着したのは写真の普及と並行している。「写真のように」対象の見た目に忠実であるからこそ洋画が貴ばれ、それまでの日本画や浮世絵は捨て去られた。唱歌のような形で洋楽は和洋折衷されて取り込まれたのに対し、洋画はもっと在来種を駆逐する力が強かったのではないか。これは日本だけの事情だろうが、どんな地域であっても、西洋音楽流入したからただちに土着文化が一掃されるということにはならないが、西洋的再現システムは合理的な視覚解釈に基づいており、写真に近似していたがゆえに、それまでの自分たちの絵はだめだとなげうってしまうような絶対性があったように思われる。むろん人物なり風景といった実在の対象を描いている限り、どのような地域の絵画であれ再現ではあるのだが、それはおのおのの様式に基づいた再現である。しかし本来はそれらと同じ相対的地位にしかなかった西洋絵画的再現という様式が、写真の裏づけによって一方言を超えて世界の再現のスタンダードとなってしまった。写真というあらがいがたい基準の登場により、アカデミックな西洋美術が世界中の美術様式を制圧できたからこそ、西洋美術を中心とした美術史が編成され、しかもそれが再現の完成と崩壊という歴史観で書かれることとなった、と考えることもできるのではないだろうか。
われわれが理解する美術史における流れは単線的な発達史観に誘導されがちである。歴史なるものをせいぜい高校の世界史程度にしか知らないのだが、その理解からすると、歴史とは——20世紀以降は別としても、それ以前の歴史とは——一国あるいは複数の国の支配者が何を行い、どう変遷したかを核とする叙述だと思われる。なぜか。政治権力を掌握している支配階級とその政策が最も多くの人々の命運を決するからだ。それ以下のこまごまとした歴史は、そうした主要な歴史のダイナミズムの影響下にある。さて、美術史というとき、支配階級というのはそもそもなりたつのだろうか。一国の歴史であれば、一時のいさかいはあっても最終的に君臨する為政者ははっきりしていて、それは確実に多くの民衆の生活を左右している。しかし美術に明白な支配層などあるのだろうか。マネやら印象派よりも、それらの背景としてしか語られることのない芸術アカデミーなりサロンのほうがフランス美術における支配的な政体であり、歴史として語られるにまだしもふさわしいのではないか。現在の日本において、政治力を体現しているかのような日本画の大家やら公募団体展やら輸出品目となっているマンガやら商業的イラストやらなんやらをさしおいて、アカデミックな現代美術のみがアカデミックな美術史の対象となっているのはどうにも無理がありすぎるのではないか。マンガやらデザインの歴史が語られるにしても、マンガ史なりデザイン史という閉じた保護区に引きこもった上で美術史の枠組を踏襲しているにすぎないように見える。このように多様な人々が勝手好きずきにやっている途方もないいとなみの中から、選定基準も不明確に選別されたごく一部の作家の列伝であっても、多くの見識ある歴史家により何度も書き直され鍛造されていくことで、数世代後には多くの人の合意を結集した客観的な20世紀美術史が可能になるかもしれない。それは今われわれが目にしているアカデミックな美術史とはおよそ似ても似つかないということもおおいにありうるだろう。何度も書き直されることで歴史ははじめて歴史たりうるのだとしたら、どこぞの写真限定の叙述が歴史にまでなるのは一体いつなのだろうか。