ピンホールカメラによる写真であると説明すると、たびたびカメラ・オブスキュラに話がおよぶ。
カメラ・オブスキュラの原型とは、部屋全体を暗くした仕掛であったとされている。遮光した箱をつくってその一面をすりガラスにしたのではなく、真っ暗な部屋の壁に穴を開け、その反対側の壁に投影される像を観察したり、穴と観察者の間にすりガラスを置いて光を受けるようにしたのがカメラ・オブスキュラの初期の形態であったのだろう。建物の一部としての「暗い部屋」そのものだったのであり、その部屋の中に入らなければ像を見ることはできなかった。18世紀以降にようやく、携帯可能な小型の箱が一般的になり、外側から像を見られるようになったが、それだけでは実は像は見えない。冠布なりを使ってすりガラスと観察者とが遮光された環境に置かれていなければならなかった。すりガラス上で像を観察するタイプのカメラを実際に使ってみればただちに理解されることだが、観察者が光に照らされていればガラスに観察者自身の顔が映ってしまうし、ガラスに外光があたってしまえばピンホールなりレンズからの像などかき消されて見えない。
このことからすると、カメラがカメラ(・オブスキュラ)であるというとき、その「暗い部屋」とは、観察する目までの空間が周囲の光を遮られて比較的暗い環境に置かれた仕組全体を指すはずなのである。これは、レンズからの結像を直接観察する方式のカメラであれば、現在のデジタル一眼レフカメラであっても例外なくなりたつことである。レンズから導かれ、コンデンサーレンズで集光され、鏡とプリズムで反射されて観察可能な像が結ばれても、ファインダーから角膜までの間が外よりも暗くなければ一般にその像を見ることができない。カメラに「暗い部屋」が残っていて、それはレンズと受光部とで挟み込まれた小さな闇の空間である、というような一般的な了解は誤っていると考えるべきである。ビューカメラであれ、一眼レフカメラであれ、撮影レンズからの像を同時に見ることができる、カメラ・オブスキュラの本来の機能を残しているカメラにあっては、カメラ(・オブスキュラ)とは冠布やピントフードや接眼部のアイピースを含んだ全体であり、むしろそれらによって得られる二番目の暗い部屋こそがカメラ(・オブスキュラ)である、とさえも言うことができる。
それはそうと、透視図法を理論化した初期ルネサンスの才人レオン・バッティスタ・アルベルティはこう記している。「視線は眼を頂点とした四角錐を造る」「絵とは、この四角錐を、底辺に平行な任意の平面で切り取った断面図であって、これは底面つまり見られるものの形と相似形である」。これはカメラ・オブスキュラから容易に連想される射影像のモデルである。そして、現在一般的な、レンズの光軸が必ず受光面中心に直交しているカメラにも適用できる。ルネサンス以降の西洋の画家が絵を描くにあたってカメラ・オブスキュラを使い、その投影像をなぞることから透視図法が明確に定式化されていったわけだが、その過程で、四角錐を「底辺に平行な平面」で切りとらなければならない理由がどこにあるのかを考えてみると、つまりカメラ・オブスキュラが元来建物の中に組みこまれた部屋の一つであり、その壁が垂直であったという点ではないか。さらには暗い部屋から覗く対象も垂直線と水平線のみで構成された四角四面の部屋であってみれば、観察面が傾いて垂直線に狂いが生じる、などということが許されるわけもない。ピンホールを使用した「暗い部屋」の中で、すりガラスをうっかり奥に傾けてしまったうつけ者がいたとしたら、われわれと同様の結像を見ることができたはずである。しかし透視図法の亜種としてそのような空間再現を絵にしてやろうという人間はいなかった。「四角錐を底辺に平行な任意の平面で切り」とることが正しい透視図法であるという規範に染め抜かれていたのであれば無理もない。見上げ方向に八の字型を描く単純な三点透視図法はやがて絵画にもたらされることになるが、垂直軸上での視線方向と消失点の方向が反対になる逆三点透視図法は、ピンホールを使用したカメラ・オブスキュラで観察面を穴側に傾けるというちょっとした発見の契機を拾いあげられなかったばかりに、ルネサンス以来5世紀以上にわたって見いだされず、そのまま写真発明以降も気づかれずに来たのである。
そしてまた、暗い部屋と対象となる部屋との両方の構造が、対象に正対することのみを許容する透視図法を要請したということは、西洋的な合理的空間そのものがこの規範をもたらしたのだ。しかも初期の透視図法の確立に貢献したとされるブルネレスキもアルベルティも建築家である。だから、この規範をねじ曲げて解釈しようとするこの撮影では、壁面が直立直交する西洋的建築物こそがその対象としてはもっともふさわしいことになる。むろんそこにとどまりはしないけれど。
箱のみならず冠布までもまるごとひっくるめての「暗い部屋」のなかで、任意の場所で光路の円錐を切断した断面が写真となる。いわば空間の中で写真となるべき平面がぷかぷか浮いていて自由に動かせるようなものだ。ならばその平面の角度が垂直に限られる必要はどこにもない。一眼レフカメラのミラー部分にフィルムを置いたようにどんな角度をとってもいいだろう。ここにアリストテレスの昔から看過されてきた「暗い部屋」のまったく別の可能性がある、はずだ。