写真は対象の再現である。しかし対象の代行ではない。必ずしも。
われわれが写真を見るという事態から付帯物を剥いでいったときに最後に残るものを考えてみる。
カメラとレンズによって撮影された写真は、一般に「何かの写真」としてしかありえない。特定の対象が写っていない場合であっても、そこになんらかの画像がある限りは、ともかく露光時の光の像であり、それが対象となっている。カブリや現像ムラ、フレアなどの光学的ノイズ、撮像素子以降の電子的ノイズが写真の要素となる場合もありうるので、それは「一般」からはずれた例外ではあるのだが。ある写真がとりざたされるとき、まずもって問題となるのは、そこに「何」が写っているか、である。つまり猫なり自動車なり女性なり花なり、どんな対象が写っているかによって写真はまずもって規定される。しかるのちにその対象がどのようであるかといった話となる。何色の猫か、車種は、表情は、云々。
ところが、「何」の写真か、ということが第一義的条件にならないきわめて特殊な写真の分野が存在する。それが鑑賞対象としての写真というサブジャンルである。そこでは「何」の写真か、ということよりも、「誰」の写真か、のほうが優先される。こんなことは写真一般の通常の文脈では稀有の事態である。一般に、グラビアアイドルの水着写真で、「誰」の写真か、が問われるのは、そこに写っている対象の話であって、畢竟するに「何」の問題とならざるをえない。そこで「誰」が写したか、が問題となるのは、「誰」に帰属する写真か、すなわち著作権者は誰か、が問題となるような限定された局面である。写された対象よりも写した撮影者がその写真を規定する重要な属性となる、ということが鑑賞対象としての写真の特質と考えてよいであろう。というより、そのくらいしか、世にあふれる鑑賞対象としての写真をそうではない一般の写真からわけへだてて扱う根拠は見あたらない。ある写真を「アート」として別格と見なす理由を、そこに写っている対象やいかにうまく写されているかという点に求める限り、そうした機会や技術さえあれば他の誰にでも撮影可能だということになり、その撮影者の写真であることの意義が失われ、はてはその写真を鑑賞対象としてありがたがる理由がなくなってしまうからである。であるならばそうした写真の価値はそれ自体によって保証されるのではなく、それが帰属する撮影者に対する評価によって下支えされるしかなくなるわけだが、そうすると撮影者の評価とは一体どこに由来するのだろうか、と幼少の兼好法師よろしく問うていくならば、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」としか説明のしようがない。鑑賞対象としての写真に対する社会的評価などというのはそういったものでしかない。
ここで、写真に写された対象も写した主体も括弧に入れるということを考えてみる。写真から「何」と「誰」を消し去ってしまうわけだ。そんなことが可能なのか。可能だ。ならばそのあと何が残るのか。「写真それ自体」か。そうした設定は、目の前にある階調の集積、純粋に視覚的刺戟に還元された知覚単位の羅列といった概念に行きつく。しかし、写真を見るに際して、その元となった対象との結びつきを抹消したからといって、ただちにそのような事態に直結するとは限らない。現実的対象との対応を欠いた色の布置であっても、われわれはしばしばそこになんらかの形状、さらには現実的対象の片鱗を見いだそうとする。意識的構成作用とは無縁の階調の横溢を知覚するなどというのは実際にはありえない。意味内容はわれわれの視覚を統制する軸であって、われわれは視覚的情報にたえず意味づけを与え、それが何であるかの枠をすっぽりかぶせた上で見ている。それが知覚というものである。認識の次元の手前で、しかし身体的生理的次元よりも高次で処理される。いわゆる抽象絵画であっても、われわれの知覚は既知の有機的な形態を拾い出そうとしてしまう。これはそうたやすく意識的に止められるものではない。そうした知覚を続けていくことで視覚的記憶庫が形成される。
だから、ここで考えようとしているのは、点描的、網点的、ピクセル的比喩で了解されるような視覚的最小単位への還元などではなく、写真とそこに写された特定の対象との一対一対応を断ち切るということである。猫が写っているとき、「この猫」であるという個別性がはぎとられた、そこらによくいそうで柄は違っても他にいくらでも置き換えのきくものと捉える。撮影者からすれば、あの時あそこに座っていたあの猫、という具合に、写真内容が指示する他ならぬその対象を現実に見知っているわけであるから、写真においてそうした一対一対応の裏づけというお墨付きを与える立場が許されている。そのようにある写真にとって特別な人物として君臨しうる特権を剥奪してしまう。そうすると、これはきわめて一般的な写真への接しかたとなる。撮影に立ちあってその現場を見知っているわけでもなく、当の対象をじかにまのあたりにしてもいない者が、街中やweb上のどうでもいいような野良猫画像や観光旅行画像に一瞥を投げるという、いたってありふれた行為となる。特定の対象との結びつきという夾雑物が剥がされて露呈する、写真を見る事態の芯とはこうしたことである。
その猫写真は再現的である。しかし何かを代行しているとはいえない。ある特定の対象の身代わりとしてそこに人身御供のようにさらされているわけでもなく、単にどうでもいいどこにでもいる猫として受け流されるばかりである。風景にしても、どこだかわからない風景の場合、ただのありふれた風景として投げ出されているだけである。いずれにせよ、写真が由来している対象が、それ以外の対象にいかようにも置き換え可能であり、本来再現が帰されるべき対象以外のどんな対象ともその写真が結びつけられうるものである以上、その写真が当の対象を代行しているとは到底考えられない。それではそこに写っているのがどこにでもいそうな猫ではなく、その個別性を誰もが認識している有名アイドルであった場合にはどうであろうか。それならば、ほんとは生身のアイドルのほうがいいんだけど、そうそうたやすく実物を拝めるわけでもないのでやむなく写真で用を足す、という具合で代行の見本になりかわる。名所旧跡の風景写真であれば、そこに行きたいけれども行けないので、代わりに行ったつもりになるための間に合わせの役どころとなる。それらのような場合には、写真は特定の対象と分かちがたく結びつけられて通用しており、対象との一対一対応から切り離して写真のみを見る、ということはできない。むろん、見るに際してそんなアイドルなぞ知らなかったり、名所旧跡として視覚的記憶庫に登録されていなければ、ただのありふれた女の子の写真なりどっかつまらん場所の写真として処理されるわけだけれど。
固有性・個別性を備えた対象とは結びついていない写真であっても、世間によくいそうな猫やらありがちな風景として思い描かれたものを代行しているとは考えられないであろうか。つまり「猫一般」といった想念やよくある風景なるステレオタイプを代行している、と。だが、そうした思い描きこそが目の前のどうでもいい猫や風景とそれらの写真から事後的に選出された代行であり、思い描きが先行しているわけではない。あくまで、それぞれの対象や写真から再帰的に導かれているだけである。視覚的記憶庫に格納されているのはそうした個々のどうでもいい視覚経験の集積であり、それらが思い描きを構成している。これについてはいずれ後述。思い描き自体が個々の写真の代行だというのに、個々の写真がその思い描きの代行であると主張するならば循環に陥る。そはいずこより来たりや。「土よりや湧きけん」だ。
写真とは再現であるが、つねに代行であるとは限らない。代行を機能としてときどき果たすこともある程度にすぎない。運転代行業者は飲酒した運転者の代役を果たさねばならない。代行される本人なしにはなんの意味ももたない。しかし写真がいつも元の対象の代わりとなっているわけではない。写真に必ずそうした責務が課されるという謂れはどこにもないし、現に写真は巷間において代行元を欠いた写真としておおっぴらに流通している。
ここで再現ということについて考えてみる。再現とは一般には元の対象や現象をあらためて提示することであると考えてよいであろうが、ここで視覚的情報について再現ということを語る場合にはより限定的な意味で用いており、対象の視覚的状態を忠実に反映しているという含みがある。再現的な絵画とは「見えたままに近く」描かれた絵画である。いわゆる抽象絵画は一般に非再現的な絵画である。ここで注意すべきは、「写真のように」「実物そっくりに」描かれた風景画があって、それが実在しない風景を描いた、架空の風景の画であったとしても、それはやはり再現的な絵画であることにかわりはないという点である。歴史画も実際の光景を描いたわけではないけれども再現的だし、宗教画など可視的ではない対象が描かれていてさえ再現的である。画家の想像の中にある風景がそこで再現されているからということではない。再現とはそこに見える視覚情報の傾向、描かれかたの様式をさすのであって、実際に対応する現実があり、その模像であるかどうかということはどうでもいい事情なのである。
再現という語の定義に拘泥しているのではない。再現という様態の意味合いを問題にしている。こうした再現の意味は写真においても同様である。どうでもいいような風景の写真は、実際の風景を撮影したのではなく、画像合成によって形成された、実際に対応する対象がない写真だったとしてもなんのさしさわりもない。一般の写真とまったく同様に再現であると見なされる。ではカメラを使わなくてもいいのか。フル3DCGによって生成された画像であっても、再現的な写真と区別がつかないところまでリアルかつ高精細化されていれば再現であると考えてよいであろう。現状ではそんなものは見たことがないけれど。実際に見わけがつかないのであれば、その画像のみを見る限りでは対象があるなしを問うてもほとんど意味をなさない。カメラを使って撮影する限り、どうしても「写真のように実物そっくりに」写ってしまうから写真は再現的なのであって、実際の対象を撮影しているから再現的なのではない。そこから遠ざかろうと、紗をかけたり粗粒子にしたりぼかしたりぶらしたり特殊な印画紙に焼いたりさまざまな抵抗がなされたわけだが、いずれも高忠実度な再現という様式の亜流でしかない。それには線遠近法という逃れがたい桎梏が大きく影響している。そして、実物かどうかなどということが問題となるのは撮影の当事者にとってだけであり、そうした裏事情が知らされなければ、実際の写真だろうと捏造だろうとまったく実用上の差はなく扱われる。写真とは所詮そうしたものだ。
写真は元の対象を忠実に置き換えることによって写真たりえているのではない。そうではなく、写真の身の上は「本物っぽさ」、単なる見た目の問題でしかないのである。そのことが、たやすく画像合成が行えるようになり、比較的高精度な3DCGが可能となることでようやく明らかとなってきた。対象が実在しない場合であっても、思い描かれたものを写真が代行していると見なすのには無理があることは上と同様である。
元の対象との類似具合が問題となるのは元の対象を引っ張り出して(実際にであれ記憶との照合であれ)比較した場合のみである。撮影の場に立ちあい、元の対象を知ることができた立場と、写真でしか見てない立場とでは、同じ写真を見ても再現の意味するところが違うのではないか。元の対象を見ていれば元の対象との比較対照となる。差も問題となりうる。しかし写真のみを見て、元の対象は写真から遡及的にしか知りえない人間にとっては、比較する対照は元の対象ではなく、そうしたもの一般である。そこで再現的というのは元の対象に準ずるということではなく、「実物らしさ」「本物っぽさ」ということであり、文化的に蓄積された視覚経験が参照されているのである。
写真において本物っぽいと思われているのは視覚的経験の積み重ねにより醸成された信憑であって、それをもとにわれわれは写真がおおむね対象の模像であると思いこんでいるにすぎない。今後のなりゆき次第ではそうした信憑は崩れ去っていき、真正さの根拠の地位から写真が転落するかもしれない。
写真が対象の忠実な再現でなければならないとする商業的写真業者の思いこみも、逆に写真は対象とずれるといった、鑑賞対象としての写真を生産する作家のみなさんがたがしばしば並べる決まり文句も、どちらも写真を当の対象と比較しての主張であるが、いずれにせよ撮影する立場の人間の勝手な思いこみでしかない。見るだけの人間にとっては、元の対象などなんの関係もなく、経験則から対象に似ているだろうとの予断で見ているだけである。
商業写真の場合、写真と対象との偏異は、たとえば絵画の複写であれば色味が違うとか形がゆがんでいるとかいった話になる。基本的には忠実度の問題であって、定量的評価が可能である。誰それの仕事よりもこちらのほうが差が少なく「より」再現性が高いといった言いまわしが可能となる。しかし鑑賞対象としての写真で語られる偏差は、基本的には提示形式の問題であると考えられる。もともと別種の体験なのだから違って当然だ。差の度合として位置づけられないような決定的な違いである。当の対象との落差なり偏差なり差異なりは撮影者個人のどうでもいい内輪話でしかないものを誇大に騒ぎ立てているだけである。たいていの場合、写真を目にした人間は元の対象との比較などできないのだから。それが対象を反映していると思って見るほかない。
一対一対応的な再現であるということの確認を行えるのは限られた条件下でのみであり、その場合には写真は代行的であると考えられる。写真で対象が問題となる顕著な例は、写真が現実の代行として使用される社会的な役割を担わされた場合である。代行機能なるものは写真の主要な用途ではあるが、所詮は用途でしかない。商品の写真や特定の人物の写真でそうした機能が最大に発揮される。そうでなければ、写真は再現が帰せられる対象との固着を欠いた再現として提示される。そこでは視覚経験の堆積が再現的であることを保証する根拠となっているため、個別の対象との結びつきという担保がなくても写真が再現であるという信用保証が支えられている。しかし、視覚経験の蓄積によっては処理できない場合が出てくる。既知の視覚情報では処理できない、見慣れないものが写っていた場合である。
10年前やっていたモノクロの写真は、なんであるかということをたいていの人に尋ねられた。彼らとしてはその写真の対象となった個別の事物に関心があるわけではないのだが、一対一対応を欠いていても再現であると安心して処理できるような、なんであるかを見わける手がかりが認められないがために、写真であるという確信さえも宙ぶらりんとなる。絵画と見なせば再現のくびきから解放されるのでなんの厄災もなくなるのだが、はた迷惑にも「写真」というタイトルが付され、写真として提示されている。ならば対象がなんであるかと聞き出さねば落ち着きが悪い。だから、実際には木肌であってもその通りに答える必要はなく、胃の内壁だ、とか下水道の内側だ、とかそれらしく見えるような答えを返して相手がそれで納得すれば充分なのである。現実との真正な対応の回復が目的とされているのではなく、通常の写真の処理手段では解決できない事例の決着が求められているだけだからである。
たいていの写真は対象の写真であるが、対象がなんであるかは実のところどうでもいいのである。何かの再現であるということ、何に見えるのか、というのが問題なのである。ほとんどの写真には上記のような説明など与えられない。いつどこで何を撮影したかという事実関係の追及はさしたる意味をもたず、当の対象は消し去られて、あとは目前の写真から勝手に対象が追認されるだけとなる。実際に何の再現であるかよりも写真でどう見えるかが問題なのである。そうした意味で、写真は自由に見られることができ、見られることにより完成されるし、写真は対象を離れて完結しうる。念のため釘を刺しておくが、これは決して明るく前向きで希望に満ちた認識ではない。
臍帯はいずれ切られねばならない。みずからの因ってきた母体との結節はいつしか終わる。
 
ここにいたってわれわれ撮影者の築いてきた写真に対する信憑が危機に瀕する。
そうではない、と。写真とは現に目の前にある他ならぬこの物事を写したものだ、と。
いまだにそうした思いこみから自由ではない。スナップではずっと待ってその偶然の出来事にいあわせ撮影できたということをいまもって珍重してしまう。スナップでありながら演出された写真は、意図かつあからさまに演出が加えられている場合ならともかく、一見自然なスナップ写真に人為的な介入がしのばれた場合、どうしても格下に見えてしまう。かつてそうした写真を、映画をもっぱらの守備範囲とする人物と見たとき、そのひとは演出されていることに対しなんの違和感も感じずにおもしろがっていて、自分が「絶対非演出」というイデオロギーになおもに染め抜かれていることに気づいたのであった。それから10年たってもいまだに抜けきらない。
それは現実の撮影という営為に価値を見いだす立場からは自然ななりゆきであり、克服されるべきものだとは考えない。レタッチして雲を消せば楽だが、その途はとらずにあくまでも現実の特快晴の日に撮影するということに執着する。その行為が重要なのであってそこをごまかしては意味がないからだ。
しかしながら、そうした事情を切り離して写真のみを見るとき、レタッチして雲を消した写真と特快晴の日の写真との間に見わけがつかないならば、そこに有意の差はない。
写真における再現とはそうしたものである。そのような現実「らしさ」が、付帯物を排していったときに残る写真の芯である。他ならぬあの日のあの光景であるということに執着するのは撮影者の独りよがりである。撮影されたそのときどきのひとや風景のかけがえのなさなどというものは、冷静に写真を見る第三者からすればただの夾雑物でしかない。
だが、むしろその夾雑物のほうにこそわれわれが写真を続ける理由があるのかもしれない。
 
築地本願寺は北西向き。夏至に近い夕刻に。