技術オリエンティドな写真

技術オリエンティドな写真というものを思い描いてみるのは有効かもしれない。カラーフィルムが出現した直後にアンドレ・ケルテスがそれを使って撮影した写真は、カラー写真という物珍しい製品が出たのでとにかく使ってみたくて撮ったように見える。あらかじめやりたい内容があって、それがカラーフィルムという新製品で実現できるから採用した、などとは考えにくい。このように、内容が先行するのではなく、技術のほうから導かれた写真を技術オリエンティドな写真と呼ぶことにする。ただちに想起されるのはハロルド・エジャートンがみずからの開発したキセノン放電管による電子閃光を用いて撮影したミルク・クラウンの写真や銃弾がリンゴを貫通する写真などだが、技術が写真の内容にもたらした変革の例はいくらでも列挙可能だろう。「技術」の意味を広げるなら、新たな写真はすべて新たな技術によってもたらされたと言ってもいい。技術的達成が発表されたあとに、鑑賞対象としての写真というジャンルがそれを後追いしていく。さらにそこで確立した意匠を商業的用途の写真というジャンルが剽窃し、普及の末に陳腐化する。そこでオリジナルとして記憶されるのは、最初に手をつけたものの業績なのである。技術的基盤としてのメディウムは、内容を支えるジャンルにつねに先行する。メディウムの発展が頭打ちになれば技術的ブレイクスルーの出現もなくなり、産業的必要から別のメディウムが登場し、前のメディウムは淘汰されることとなる。そこにいたって、そのメディウムに依拠するジャンルは成熟しながら自己言及的ないし懐古的な経路を辿る。
ある技術の黎明期にそれを利用してなされた仕事は、いずれフォロワーに飲み込まれる。新しもの好きは新しいものを追いかけていくことでフォロワーという大鯨に飲まれないよう逃げ続けるしかない。しかし、技術の終焉期にその技術に導かれた仕事には、フォロワーの出ようがない。たとえば、オルソフィルムによって可能となる写真は、もはやオルソフィルムが供給されない以上、別の人間に模倣される可能性は皆無である。緑にも感じず、青にのみ感光する分光感度特性をもつレギュラータイプフィルムや医用等の特殊用途のオルソフィルムはまだあるかもしれないが、入手困難な上、写真撮影用としては感度が低すぎると思われる。自作が可能と思われるかもしれないが、印画紙ないし感光紙であれば手作業で製作することが可能であっても、ある程度高感度が必要な撮影フィルムの自家塗布には現実味が乏しいだろう。そうした遅咲きの技術オリエンティドな写真があるならば、間違いなく絶後であり、それが前例のないことをやっていたならば、空前でもある。つまり確実に唯一無二のものとなる。
技術オリエンティドな写真はその技術の勃興期に特有の傾向である。退潮期にはメディウムの衰退にともなって自己言及化傾向が強まり、ジャンルが狂い咲きのごとくに活況を呈したかのように見えるが、技術オリエンティドなアイディアはその時点であらかたやりつくされているので、真に類例のないものをそうたやすくあみだせるわけではない。長期にわたって誰もやらなかった、のみならずこの先誰もできない、そんなのはそうそうころがってはいない。オリジナルなものとは追従者があることでオリジンたりうるのであるから、衰退期における空前絶後の技術的達成に本来の意味でのオリジナリティはない。ただただユニークなのである。