なぜこのような設定を用意する必要があるのか。写真を見るという事態に付着する付帯的条件を剥ぐなどということに意味があるのか。当該の知覚的対象をとりまく要素も含む総体として受容することが、ものを見るという経験ではないのか。そもそもそんなことは不可能ではないか。当該の対象とその後景とは不可分なのではなかったか。「現象学的還元」なんていう境地は無理してその気になってようやくなれるもんで日頃からそんな調子でやってられないっすよ、と後継者に批判されたように、非常に特殊な状態を仮構しているのではないか。
それは、日頃われわれが写真を見るときに疑うことなく依拠している諸前提をとっぱらって写真を見てみるということである。もっといえば、われわれをとりまく文脈を離れて写真を見るということでもある。そんなことは自然にできることではない。意識的かつ強引にそのような諸前提がとりはらわれたような環境を現出させなければならない。
なんのためにそんなことをするのか。
さらにまた、写真が制作される実際の過程を問題にしている一方で、過程と切り離された結果としての写真のみを見るよう主張するのは矛盾ではないのか。
どうして「写真外の夾雑物をとっぱらって写真のみを見る」などという態度が必要なのか。
 
実際にそのような局面が存在するからだ。
 
われわれの常識が通用しない人々、われわれの言語が通じないバルバロイはわれわれの写真をむきだしのままで見るに違いないからだ。われわれが写真に属性として担わせている制作者に関する情報や社会的評価、対象についての知識、撮影の経緯や設定などはおかまいなしに、ただ写真のみに接するわけだ。
少なくとも、われわれが写真を見るにあたり日頃準備している付帯的条件の影響下で見てもらえると期待することはできない。とんでもない文脈の俎上に載せられるものと覚悟しなければならない。われわれが想定している文脈は彼らにはまったく通用せず、現にその写真に見えるもの以外のなんらの合意も約束も予備知識も要求できない、そのような他者に見られることを意識しなければならない。
異邦人にこそ見せるべきなのだ。別のことばを話し、われわれが知らぬ間にどっぷりつかっている問題の地平とは無縁であるようなよその国の人に。われわれのみが共有している問題を離れては成立できないような写真にはいかほどの価値もない。彼らと同じように見るための訓練として、われわれが日頃どっぷりとつかっている文脈から脱却してみる必要があるのだ。
内輪でわかりあっていてもまったくくだらない。中身の乏しさを引用とアナロジーと言いくるめでごまかすような、20年前に流行した批評のパクリをいまだに得意げに振りかざしていてもどうにもならない。ジャーゴンと曖昧な符牒のやりとりにいそしみ、自己陶酔的な思弁をほめあっていたところでなんの進展もない。
すべての前提を疑い、明晰に考えねばならない。眼前の現実にのみ立脚し、文化的背景を共有しないバルバロイにも通じるようなしかたで語らなければならない。そのためのとっかかりとして、目の前にある写真以外の要素を排するという、いわば真空状態のような、あるいは無菌状態のような、自然には存在しない人工的・実験的態度が要請されるのである。