そうはいいながら、われわれはこの世界の片隅で生息しており、そのうえ日本語しか使えない。
しかしわれわれにはカメラ語があるではないか。この地は文化においても僻地なのだが、カメラ産業という点では世界の中心がここにある。ビューカメラだけはそうでもないのだが、それ以外のカメラの世界市場はここ数十年この国が制覇している。われわれが用いるカメラに関する用語が事実上の標準なのであり、それはカメラが使われているあらゆる地域の言語に翻訳可能なはずである。アメリカの政治的・経済的・軍事的覇権によって英語が世界の基軸言語となり、さらにコンピュータ言語の基礎となることで今後もそうあり続ける保証を得たように、写真というメディウムにおいては、日本のカメラ産業という後ろ楯のおかげでわれわれのカメラ語はそのような優位に立つことができるのである。そしてまた、レンズの描写傾向といった主観的で曖昧な話ではなく、カメラの動作について語られることは、すべて明確かつ合理的かつ現実的に理解可能である。写真について語るにあたり、そうしたカメラ語にもとづくならば、その内容はすべての異文化圏で共有されうるだろう。現にこれまで日本語が話せない写真家相手に写真の話をしたことが2回あるが、実際の機材という確実な裏づけがあれば、たどたどしい英語であっても立派に話が通じるのだ。
バイスとマテリアルとプロセスというゆるぎない現実が目の前に存在するということ、これがわれわれの根拠であり出発点である。そしてそれらはどこでも誰に対しても示すことができる動かぬ物証である。実際に写真を作るにあたってそれらなしには何もはじまらないということと同時に、写真についての記述もそれらに基づいて編成されるべきなのである。