可塑性について

ここでいう可塑性とは、内容をさまざまの文脈に応じて解釈し直せるといったことではなく、多様な用途に応じて変形させることができ、使い回しがきくという、使う側から見た属性、メディウムとしての性質のことである。
メディウムの可塑性を考えるとき、まっさきに思い浮かぶのは粘土だ。粘土であれ紙粘土であれ油粘土であれ、融通無碍そのものである。粘土細工は幼少期にやらされるわけだが、手を使って実際のものをいじるということのもっとも初期の経験であり、造形の原初的な姿ではないかという気がする。粘土自体が文字通り可塑性に富んでいるだけでなく、メディウムとしての粘土に可塑性という概念の範を求められるだろう。それは、幅広い使い途に適応でき多様な内容を盛ることができる柔軟さがあるということだ。いいかえればつぶしがきく。懐が深い。むろんそれは粘土や写真に限られる属性ではない。絵画や書物はさまざまにありかたを変えることができ、極めて可塑性が高いと考えられる。
ならば可塑性が低いメディウムとはどんなものか。ポケベル、アドバルーン、飛行船、こういったものをメディウムととらえるならば、なんらかの制作物に転用しても取り回しがきく可能性には乏しそうだ。黒板、野外電光掲示板、風呂桶の底面でもあまりたいしたことができそうには思えない。一時広告に使われていた飛行機雲なども、思いもよらないアイディアの受け皿、あるいは逆にアイディアの源泉でもいいが、そうなりそうな気配はない。つぶしがきかなければ廃れる。そしていずれも一般に鑑賞対象とは見なされていない。まあタイポロジー崩れの漫才師みたいな輩がいずれネタに困ってとりあげる可能性大であり、その程度の変種はあったのだろうが、それとてもたちまち消える。生物の種にあって多様に分化していることはその種の豊かさの反映だが、ポケベルやアドバルーンはそうした活況に至らぬまま衰退した。高度な分岐と繁栄を見ぬままに衰退した恐竜類末期の亜種のように。
映画というのは社会的・歴史的に規定されたジャンルであって、ここでいうところのメディウムではない。メディウムとしては、光学的フィルム映写システムなり、場合によってはプロジェクターやディスプレイによる映写システムといったことになろうが、これは可塑性が比較的低いように思われる。スクリーンや映写機は、どこでもどんな条件でも稼働させられるというものではない。いわゆる実験映画には映写機の機構に手を加えるものもあるが、映写機という機械がないことには、ジャンルとしてはどうあれ、このメディウムからは逸脱してしまうので、そのようなデバイスぬきにはなりたたない。ラジオも放送・受信というわりあい大がかりなシステムを前提している。映画やラジオの新しさとはもっぱら内容における新しさであり、メディウムのありかたに変革をもたらすようなものは少ないだろう。ただ、それにしても、8mmから70mmまでのフォーマットの拡がりや製品の多様さなどを見ても察せられる通り、撮影・映写システムはメディウムとしてたいへん幅が広く、アドバルーンなどとは比較にならない豊かさがあるのは明らかだし、可塑性が低いからそのメディウムの価値が低いなどと述べたてるつもりはない。
このように考えていくと、ここで考えている可塑性は概して、最終提示媒体が単純で、大がかりなしくみを必要としないメディウムのほうがより高いように思われる。大規模な社会的インフラに乗っかっているようなシステムは小回りがきかない。いわゆるメディア・アートというジャンルで採用される手段の多くはさまざまなバックグラウンドの仕掛けに依存しており、生命維持装置につながれているように、それらがとっぱらわれれば息絶えてしまう。その仕掛けが提供する枠内にしか可能性が開かれていない。
写真の可塑性の高さは、光さえあれば受容可能な、きわめて単純な提示媒体であることによるのだろう。それは可搬性の高さとも関連する。その提示媒体も平面だけでなく、いかようにでも変形させて立体にしたりすることが可能であり、紙のみならず、さまざまな媒体に画像を形成することができ、多くの場面に転用がきく。また、途中の工程に手を加えることが可能な度合も可塑性に含めて考えていいだろう。手作業の工程が多いほど、そうした可塑性が高い。写真は工業製品であり、規格に縛られることが制約にはなるけれども、規格の多さと柔軟さにより、さまざまな製品が供給され、幅広い需要を満たすことができる可塑性を獲得した。産業用途や広告用途や鑑賞用途などといった多様な写真のジャンルはそれによって可能となったのである。
留意すべきは、規格の多さと柔軟さとがそうした多様性につながったということである。ビューカメラばかりではスポーツ写真などできないし、レンズつきフィルムで測量写真を撮影するわけにもいかない。ところが現状では撮像素子のフォーマットはいくつかのメーカーの供給する限られたサイズに絞り込まれてきており、中型以上のデジタルカメラバックがいつまで存続するのかもあやしい。それは、フィルムのフォーマットが多様であり、その上数多くのフィルムの銘柄が用意されていた時期に比較した際の可塑性の低下を意味する。鑑賞される写真の多くがいまなおフィルムを使っているのは、因習的に続いているだけでなく、フィルム撮影と引き伸ばしによる写真の可塑性の高さが必要だからという場合もあるのだ。写真の可塑性そのものが源泉となっている場面ではなおさらである。