効果と技術

効果というのは、純粋志向でロマン派様式な精神主義の人が蛇蝎のごとく忌み嫌う語である。だが、目的連関によって写真というメディウムの諸要素を編制していく上で、効果的であるか否かというのは有用な価値指標となりうる。画面内の階調の布置を統制する尺度として効果という視点はきわめて適切である。文字情報などのジャンル的文脈を取り払い、マテリアルとして写真をとらえる限りにおいては、写真は視覚的効果の総体ととらえることもできる。このような立場から、写真を効果に還元してしまうという企てが導かれる余地もありうるだろう。だが、ここで提唱したいのは、実際に個別の写真を効果で腑分けしてみせる手続きではなく、明確に記述可能な効果の集合として写真をとらえようとするという態度のほうである。「無意識」とか「欲望」とか「記憶」といったなんのことやらサッパリわからない呪文で、写真について何ごとかを語ったつもりになってしまう流布されきった語り口と、そうした態度によって導かれる、何がしたいのかどうにも判然としない一連の高尚なお写真に対置されるべき、意図しているところを誰にでも一目瞭然であらしめようとする、きわめて現実本位の写真の態度である。効果とはそういうことだ。鑑賞対象としての写真とは一般に、本人が鑑賞対象として制作したわけではないにもかかわらず、その意に反して鑑賞対象として提示されてしまったという場合でない限りは、ともかくなんらかの意図の具現化だろうから、具現化にあたっての効果の稚拙という観点から見ることができる。写真における技術を問題にするとは、そこで意図をそれ自体で評価するのではなく、どのようなデバイスとマテリアルとプロセスを用いていかにしてその意図が実現されているかを吟味するということである。意図は最終的にどのような結果が得られたかによってのみ明らかになる。したがって、意図は実現された限りでしか評価されえない。意図とは現出されるにあたっての現実的手腕や手続きの結果としての効果と切り離してとらえることはできないものである。そこで問われるのは、どれだけ効果が上がっているかなのである。写真に対するそのような評価軸があってもいいだろう。
「効果」という語とそれを追求する態度がさげすまれるのは「技術」を云々するのが下品なことであるかのように見なす風潮と軌を一にする。それは、技術に対する無知と内容に対する無知の双方から長年にわたって強化されてきた偏見である。さらに言うなら、その根底にあるのは技術と内容とが相即不離であるということに対する無理解である。技術に関する記述には、それは技術的知識を持つ限られた層にのみ理解可能な閉じた記述だという反論が当然ながら予想される。だが、そのような主張を行う、内容の側の人々の弄する言説が、どれだけ「写真史」やら「批評」といった、世の中からすれば明らかに「閉じた」ジャンルへの理解を要求しており、数多くのジャーゴンにまみれきっているかということに、彼らは気がついていないとでもいうのだろうか。そして、そうした批評的土壌への予備知識と関心を持つ人々よりも、写真の技術的側面に知識と関心を持つ人々のほうが、ざっと見たところはるかに多いと考えられ、むろんそのすべてがこのような議論を好むわけではないにせよ、潜在的読者としてもずっと多くの人口が期待できるだろうことを、彼らは直視したほうがいいのではないか。さらにまた、内容と現実的技術との間に彼らが漠然と設けている主従関係と上下格差の根拠を、彼らは明確に示せるのだろうか。