帰ったらもっと自由な写真がやりたいものだ。気ままにふらっと出かけていって撮れるような写真。制約のない写真。今やっているのは縛りが多すぎる。無雲であること、正面からの場合横の線の水平が狂っていないこと、フレーム一杯まで写し込み、余白を最小限にとどめること、対象に対してもっとも効果的な光線状態、あるいは完全順光にすること、そして相応の形なり色の対象であること、三脚が立てられる場所であること、人を写し止めるのを避けること。さすがに疲れた。次はひさびさにレンズを使って、買ったまま稼働していなかったSinarを担ぎ出すつもりだったのだが、あれも縛りが多くなりそうだし、荷物の重さは今以上。そうだあれをやろう。EbonySV23でやるやつ。やっぱりビューカメラで、カメラはもっと重いし三脚が必要。でももっと軽い三脚で充分。ポラとかもいらない。そしていちばんだいじなのは、おもしろいと思ったら気構えず気楽にばしばし撮れること。しかもブローニーでたくさん撮れる。
写真をやっててなにがつらいって、まったく撮れないことだ。スランプで撮影できないのもしんどいだろうが、撮影すべきものは決まっていて、何回も行っているのに、条件が意に染まずに撮影に至らず、そして条件が揃うのを待ちつづけて日々を無為に過ごす、これも徒労感でくさる。どんどん撮影できるというのは、その最中にまず高揚するし、一日が終わって撮影したフィルムを数えるなりおさらいするなりして、働きの成果として確認できる。撮影そのものによって報酬が与えられるのだ。他者からの社会的な報酬がほとんど期待できない以上、これはたいせつなことだ。写真がいいのは、とにかく撮影できていてそのことが楽しければ、それだけで見返りが与えられることだ。特にフィルムの場合、ロールフィルムで気軽に撮影できるとはいえ、そう闇雲に撮りまくれるわけでもなく、撮影するからには多少ともものになると見込めているのであり、撮影できたというだけである程度はみずからの評価基準にかなった成果が得られていることになる。それにより、自分は何ごとかをやっているという手応えが得られる。たとえばインスタレーションのつくり手は、展示空間を調達して設営しなければそのような報酬が得にくいだろう。知っているインスタレーションの人は、展示の前の準備期間にしか制作していない様子。その期間しか、自分がものをつくる人間だと確認でき、しかもものをつくること自体からの報酬を得られないわけだ。あれでよくやっていけるものだと思う。写真を撮れた、使った時間と労力に見合った収穫が得られた、という手応えは重要だ。その収穫は腹を満たしたり他の社会的有用物と交換できるものでもなく、ほめられさえしないが、みずからが収穫だと評価できるものを収穫できた、というだけで、どうにか先へと続く報酬となるのである。
次はのんびりやろう。今のは制約を課すことで写真の初期設定を明確にする効用はある。また。対象が動かない建造物であるため、うかつに撮影すると再撮影したくなってしまう。612なんかがそうだ。Ebonyのころは、再撮影は決してできなかったので、うまくいっても失敗してもそれで終わりだった。でも建造物相手の場合、これで決定打だという確証を持ちづらい。あとからあちこち不備が目についてしまう。そうしてやりなおしていたら、きりがなくなるのだ。そういうことがないよう、これ以上のものはできない、と思えるために、最初から要求水準を高めている、ということもある。でも、完全指向はいずれ行きづまる。次は、その時しかできない写真になるような設定条件にしよう。たとえば、今とは逆に、雲は必須とする。そうすれば、やりなおしはきかない。その写真はそれで決まり、となる。そのことで個別の撮影結果がおきかえのきかないものとなり、撮影に対する報酬を実感するのが容易になる。そのように、その時々のさまざまな条件に対して、もっと寛容な写真をやろう。