文章のほうが写真よりおもしろいと言うひと

今までやってきた写真よりこの日誌のほうがおもしろいと言ってくるひとがいる。
対する答えはこうだ。文章は誰だってわかりますから。
文章は読めばわかる。この日誌がわかりやすいかどうかという話ではない。当然のことではあるが、ことばとは元来思考や感情を共有化するために鍛え上げられた道具なのである。立場が違うものどうしがわかりあうためのものなのだ。わかってあたりまえ。ことばは誰にでもわかる。ただし、以前も書いたが、「誰にでもわかる」とはすべてのひとが理解できるという意味ではない。適切に記述してある限りはしかるべき読解能力を有するひとには通じる、ということ。文化的所属が異なる相手に対してであっても、それを埋めるための説明を尽くせば理解を得られるはずである。言語という道具では、そうした意味で誰にでも適用可能な標準化が達成されている。ただし、言語の障壁外には出られない。
一方、写真は誰にでもわかるというわけにはいかない。それは文脈依存度が高いからだろうか。鑑賞対象としての写真は概して文脈依存度が高いだろう。今やっている写真、これまでやってきた写真も、ある程度の文脈を共有してもらえなければ理解が難しいと、残念ながら認めざるをえない。だが、文脈依存度が高いということ以前に、写真は見るひとを選ぶメディウムなのではないか。
われわれの価値判断の根っこにあるのは、最終的には好きか嫌いかだとずっと思っている。この、価値判断の最深層にある審級からは、誰も自由にはなれない。好悪に左右されない、歴史的で客観的な評価を標榜するひとは、そもそも当人がそうした基準をよしとする嗜好、さらにはその基準を要請するアカデミズムなどの集団に所属するのを好む傾向を持っているからこそ、それを評価基準として採用しているのである。そして、完全に客観的で公正中立な評価などできないのはいうまでもない。好みとは別の外在的な基準に従って選ばれたかのように主張される評価も、結局のところ好みによる選別が理屈で下支えされているにすぎないだろう。また、そのおりおりの流行や主流の傾向に付和雷同するひとびとも、自前の確固とした基準によらずに、好み以外の基準に従って他律的に判断しているように見えがちだが、そうではなく、そのときどきの集団的な好みに追従することで得られる利得と快への好みが、一貫した判断基準を維持することへの好みを、より上回っているというだけである。流行りもんが好きなだけ。要するに、最終的にはみな好き嫌いでものごとを決めているのである。
たいていの場合、写真への評価は好みで決定される。むろん文章に対しても好き嫌いは発生するのだが、たとえ嫌いな相手であっても、意を尽くし筋道立てて主張してある文章なら、理解の余地は充分にある。論理的判断が好悪の評価を抑えこむ場合があるのだ。ところが、視覚的対象に対しては、誰もが認めるような明確な判断基準がなく、論理を経由せずに瞬間的に受容されがちなために、ぱっと見の好き嫌いで判断してしまう割合がきわめて大きいと思われる。
写真は一般に個別言語への依存度が低い。とはいえ、言語への依存度が高い種類の写真もあり、それは単純に画像に写り込んだ文字の意味が大きな役割を果たすものから、キャプションの意味内容によって成立しているもの、時事的・社会的・歴史的情報に依拠しているものまで、言語的に理解可能な写真というものはある。それは言葉の意味内容に還元しやすいがゆえに、いわゆる「写真を読む」といった解釈法に向いているだろう。そして、そうした受容に適した、語りやすい写真がもてはやされるのだろう。だが、「写真を読む」という態度には、そのような解釈法にはまったく適さない種類の写真が確実に存在するという根本的な限界があり、また運用上も、すでにできあがって頻繁に流布している「読みかた」の図式に当てはめてことたれりとされることが多い。つまり紋切り型化しやすい。そうした解読格子が写真というジャンルに対する「誰もが認めるような明確な判断基準」の確立につながるかというとあまり期待できそうもない。だが、そのような方法の適用対象としてうってつけの、言語の側に近いような写真もある。しかしながら、一般には、どこの国のどんな言葉を話す人間が撮影した写真であっても、相応に見ることができるし、われわれの写真をどこの国に持っていっても、ことばが通じないからまったくわけがわからない、ということはない。写真を見たことのないひとびとを相手にした場合にはどうだかわからないが、写真についての最低限の文化的合意が成立している場所なら、ある程度の理解が期待できるだろう。文化的地平の差というものはある。「音楽に国境はない」などというのは嘘っぱちだ。音楽が他国人に通じるとしたら、西洋的音楽の価値軸を共有していて、ことばは違えど同じ音楽的習慣の上に立っているからこそそれが可能になっているのである。西洋的音楽に接したことがない民族とは音楽の価値軸を共有できないだろう。音楽に国境は厳然として存在する。同様に、写真にも国境は存在する。相手が写真に関する地平的了解をわれわれと共有していることが前提とはなる。それが「写真についての最低限の文化的合意」ということである。むしろ、閉じた文脈に寄りかかっていないだけ、適切に写真を見られうるかもしれない。写真には言語の壁を越えて理解を得る可能性がある。
むろん理解がなりたたないことは多い。それはつきつめるなら好みに合わないということだ。そして、好みが合わない相手は、同じ言語を話す人間の中にいくらでもいる。むしろ、そこらへんを歩いている日本人を捕まえてきて、任意の鑑賞対象としての写真を見せたところで、大半は関心を持たないか拒絶されるであろう。そうした相手に、ことばを使ってあれこれと説明し、とにかくどうにか意図を理解させようとする、あるいは刃向かいづらい文脈で抑えつけて、理解したように思い込ませる、というのがしばしばとられる手段である。ことばのほうがはるかにわかりやすい。文章なら誰にでもわかる。写真は、残念ながらそのようにやすやすと理解してもらえないことのほうが多い。写真への好みの違いをことばでねじ伏せるわけだ。
ところが、好みが通じる、すなわち根底において同じ判断基準を持つ相手が、同じ言語を使う者のなかにしかいない、とは限らない。ことばが通じなくても、写真を見せればわかる、という事態が現に存在する。
つまりこういうことだ。
文章は、読めれば誰にでもわかる標準性とひきかえに、読めないひと、その言語を解しないひとにはまったく通じない。日本語で書かれたこの日誌は日本語の読めない相手をはなから切り捨てている。
写真はというと、誰にでもわかるわけではないが、そのかわり、言語を異にし、ことばでは意思疎通のできない相手であっても、視覚的価値基準を共有しているなら、好みが同じなら、通じる。そして、世界中どこであっても、持ち込んで勝負ができる。
ことばは普遍的に互換可能な標準化された規格である。ただし、その互換可能性は標準化が行き渡った範囲内に限られる。日本語はおおむね日本国内標準ではあるが、ごく狭い観光地を除き国際的にはほぼ通用しない。USB機器のように、同じ規格同士であればほぼ確実に安定して接続できるが、I/Oの規格が異なればつながらない。規格化された写真もある。それは言語との親和性があり、「読み解き」の適応性が高い。文脈依存度が高く、能書きや付帯情報で成り立っている写真もそれであり、言語と同様、一定の範囲内での流通が容易である反面、一歩外に出ればきわめて脆弱でさまざまな保護を必要とする。ところが、規格化などされておらず、しようもない、言語に回収されにくい写真が存在する。接続互換性の保証はない。とはいえ、規格など必要としない広範な範囲で接続できる可能性がある。かつてLuckyの引き伸ばし機とLPLのトランスとで、プラグの形状が違うのを結線して強引につないだように。それは好悪という、おそらく人間の多様性の根源近くにあり、もっとも標準化から遠い審級を通じて可能となるのである。
ことばは通じないけれど写真についての価値基準が共通する相手や市場。同じことばを話す集団に受け入れられなかったら、そこに向かうしかない。問題はそこに行き着くまでにやはり言語に頼らざるをえないことであり、言語的障壁はつきまとうのではあるが。