標準化された写真

言語とはもっとも標準化された道具である。私的言語や喃語など非公共的な言語は別として、公共的な言語は誰にでも使えるよう標準化されている。でなければ言語として成立しない。その中でももっとも標準化が徹底しているのが数学言語・論理学言語・プログラミング言語であり、日常言語の標準化を極めたのが法律であろう。
それは誰にでもアクセス可能であり、誰にとっても同じ理解と反応をもたらすべく整備されている。しかしながら、何度も述べたように、その「誰にでも」というのはきわめて制限されている。その言語体系を解する者だけが標準化の対象であって、そこに参入できない者はもとから除外されている。銀行ATMや鉄道切符自販機の利用想定客から高齢者や幼児や視覚障碍者が除外されているように。
標準化とは、必要な条件を満たす者に対しては広く公開されているが、参入できない者は容赦なく切り捨てることである。
そして標準化された写真というものも存在する。たとえばストックフォトがそれだ。かつてのフィルムであれば6x7、4x5などとフォーマットが規格化され、データならアスペクト比と解像度と画像モードとbit深度、色空間、さらには保存フォーマットやら圧縮形式やら記録媒体やら転送方式やらが規格化され、さらには内容も用途に応じて分類と整理が行き届いた、見事に体系化された写真群。美術館によっては鑑賞対象としての写真にまでストックフォトもどきの分類法を導入し、内容やらキーワードから検索できるようにしている。
すでに出尽くしたありとあらゆる写真様式や各種手法の中から、ソムリエだかシューフィッターよろしく出稿元の意向に見合ったものを見つくろってきては、最適解を用意する熟練した広告写真関連業者の産出物は、業界固有の写真処理フォーマットに対して完全に規格化され、要求を充分に満たし、もし誤差が生じても確立された処理法にしたがって体よく吸収されるよう、実にたくみにつくりあげられている。誰にでも所期の目的を果たすべく整えられており、どこに出しても恥ずかしくない完成度、つまり完全な標準化が達成されているというわけだ。
そしてまた、すみずみまで「読み解かれ」、腑わけされつくした写真は、もはや記号としてしか機能できなくなり、写真を語る語法上で標準化されている。
しかしながら、当然のこととして、およそ標準化にそぐわない写真も存在する。写真というメディウムは、工業製品として標準化がなしとげられている。しかしそこに実現されている画像内容は本来規格化できる類のものではない。美術館の写真の内容別分類を見てみればその限界がわかる。むしろ、標準化になじむのは、広告写真など強い目的のために緻密に制御された特定の分野だけであり、気ままにまた乱雑に撮影されるたくさんの写真がそうした解読格子に体よく収まるとは限らない。
「写真を読む」やら「写真を読み解く」といったしかたは、写真の標準化促進運動と見なしていいかもしれない。写真に既存の解読格子をあてはめて、誰にでもわかるよう言語的に理解可能なものとして標準化し、共通化するという運動。せっかく脱言語性を獲得した写真をまたしても言語性に引き戻すのはどうかという気もしなくはないけれども、写真に関わる方法の一つとして、ありうるものだろうとは考える。それを否定するつもりはない。ただ、それは写真を文脈のほうから読んでおり、あるいは写真を通じてなんらかの問題を解いているのであって、写真をそれとして見ているとはいいがたい。「読む」とは対象をあらかじめ用意された文脈の俎上に置いてなんらかの意味を与えることとなるだろうから。結局のところ、見ることよりも問題や文脈を優先する向きがとるべき立場だということだ。そしてまた、そうした立場からは、「読む」なるコード処理に適さないと判断された写真は劣ったものとして処理されてしまう。標準化から除外されるのである。
標準化には2つの相がある。標準化から逸脱するものを考えてみると、2通りの逸脱のしかたが考えられる。言語でいえば、ある言語に対して失語者やその言語を理解しない者は、標準化の範囲外となる。一方で私的言語や喃語のように標準化されえない言語というものもある。ストックフォトが標準化されているというのは、写真素材が規格化されていることと並んで、誰でも同様の利便性を持って使えるということがある。ストックフォトからはみ出す写真を考えると、ネガフィルムやネガプリント、6x17判やミノックス判といった特殊サイズが該当するだろう。そしてまた、ストックフォトの顧客から除外されるという事態もある。取引口座を持たないとか、ネット環境がないとか。上記の写真の理解の標準化からこぼれ落ちるのは、個々の写真でもあり、それと並んで「写真を読む」ことができないひとびとである。
かつて述べたように、写真という標準化されつくしたメディウムをもちいながら、ジャンルのうえでは標準化から両側で逸脱している、これがわれわれの困難である。