膠着していた生業である程度納得いくものを作れて全体に調子が上向く。ずっと不調だった仕事がこれだけ影響していたとは。自信というのはなくてはならないものだ。自己否定、自らを疑いの俎上にのせることでさえ自信の支えは必要である。もっとも苛烈でパワーを要することであるから。
自己否定というのはずいぶん以前から金科玉条だったが、果たして行動規範としてふさわしかったのだろうか。むしろそれこそ疑われるべき理念だったのではないのか。たえず自らを更新していかなければならないという強迫観念と言いかえるなら、たちまちおなじみの相貌となる。
キュレーターを名乗る人種、すなわち美術の趨勢を反映しまた形成すると見なされている階層は、みな「インパクト」とかいうものを要求する。それが今の美術の価値基準として疑問の余地なく妥当と皆に認められていると彼らは思っているらしい。それは正しい。ひと目でわかる新奇さ、従来にない設定、意表を突く仕掛け、こういったものがキュレーターたちのもてはやす要素であるが、これは若手お笑い芸人が評価される基準とまったく同じである。それ以外のジャンルでもおそらく成立するだろうし、その意味で社会全体に蔓延している風潮であるといえる。ぱっと見の印象でものを判断するクライテリアはたしかに皆が認めている。思いつきとノリとやったもん勝ち。そして、それまでになかったスタイルで評判になって使い回されたあげくそのスタイルが飽きられ、スタイルを次々と更新していくという重荷を果たせずに忘れられていく、ごく一部勝ち残った者も人生半ばにしてすでに枯れ果てている、というなれの果てまでもお笑い芸人と逐一符合する。
これでは疲弊し枯渇していくだけだ。個体発生は系統発生を予見させる。枯渇は消え去っていくそれぞれの人物だけにとどまらず、ジャンル全体に波及する。現代美術のなかの写真というサブジャンルでも、すでにひととおりのネタは出尽くして、あとはすでになされたことのかげに隙間をいかに見つけるかの競い合いになっているというのが大方の見るところ。いまだに続けられるモダニズム的「進化」の行きつく先である。
閉じていることが問題なのではない。閉じたもの、現代美術の内輪でしか理解できないものへの反省から、精神年齢上の未成年、資本、マスゴミ、こういった連中の機嫌とりに汲々とした結果がこのありさまなのだ。誰にでもわかりやすいことがよしとされるなら単純な刺激に向かうのが当然の帰結。開かれてりゃ何でもいいってもんでもないだろう。「開かれ」自体も新しい意匠としていずれ使いつくされる。問題の所在は閉じ/開かれということ以前にある。
焼き畑農業のあとには砂漠しか残らない。
この焼き畑農業型、使い捨て多段ロケット型、石油産業的資源消尽型の価値基準からはそうたやすく抜け出せない。展示のたびに「新展開」を求められるばかりか求め返してしまう。これほどの性急さはここ数年の傾向かもしれないが、それ以前から、たえず自己の現状を乗りこえ成長していかなければならないといった思いこみがあった。今やっていることが写真技術上のギミックに依存しているというのは否みがたいし、いずれこの設定の可能性は使いはたして放棄することとなる。美術史的進歩史観に今なお染め抜かれている。別のよりどころをどこに見いだすか。
サスティナビリティとは資本主義の延命策でしかない。サスティナブルな開発や成長という言い回しで力点が置かれているのは開発成長が保たれることであり、経済的体制の維持が至上目的なのである。それどころかサスティナブルなる謳い文句自体が新たな商売と市場になりはてている始末。根本的にこれまでの右肩上がり拡大路線と何ら変わるところはない。現代美術の発達理念の維持に与し、その延命のための人柱となるのではなく、自身が写真のいとなみを持続していくということが重要なのである。いかにしてそれは可能なのか。おびただしい死屍に連ならないために、生き続けるためには。何らかのアタラクシアの境地に達すればいいのだろうか。花鳥風月にでも行き着こうか。それは痴呆症によってのみ可能な方途だ。
見た目の訴求力や効果を追い求めていくあまり、何かが欠落していく。めまぐるしい意匠の変遷の消費に能力の過半を費やし、別の能力が衰退する。キュレーターたちが感じとれなくなった、あるいは存在しないことにしようとする、あるだいじなもの、その場限りでなく持続する何か、それこそが拠って立つべき場所なのではないか。