抜粋

写真というメディウムに関する世間一般の了解を知るためのサンプルとして、メーカー系ギャラリーばかりでなくこういうところも巡回している。http://www.nawa-jp.com/etc/etc.htm機材の話題を繰り広げている限りはいい。しかし「写真とはなにか」などとのっ…

朝からはっきりした雲はないがやたらと視界が悪い。巻層雲か、光化学スモッグか。昼前から雲が厚くなり光量が下がったので様子見。山中信夫に倣って自宅の前に向ける。ベランダからなのは山中とは違うけれど。Gitzoにスーパークランプのバッタもんを設置し水…

可塑性について

ここでいう可塑性とは、内容をさまざまの文脈に応じて解釈し直せるといったことではなく、多様な用途に応じて変形させることができ、使い回しがきくという、使う側から見た属性、メディウムとしての性質のことである。 メディウムの可塑性を考えるとき、まっ…

写真は選択か

そりゃたくさん撮影できれば高揚もするし充実した気分になれるんだろう。でも10数年来、機材背負って出かけても撮影しないで帰ってくることのほうがずっと多いという調子でやってきているんだからしょうがない。おもしろいかどうかわからないけどとりあえず…

そうはいいながら、われわれはこの世界の片隅で生息しており、そのうえ日本語しか使えない。 しかしわれわれにはカメラ語があるではないか。この地は文化においても僻地なのだが、カメラ産業という点では世界の中心がここにある。ビューカメラだけはそうでも…

なぜこのような設定を用意する必要があるのか。写真を見るという事態に付着する付帯的条件を剥ぐなどということに意味があるのか。当該の知覚的対象をとりまく要素も含む総体として受容することが、ものを見るという経験ではないのか。そもそもそんなことは…

鑑賞対象としての版画のさまざまな技法が開発された数十年前には、版画家それぞれが独自の技法をあみだしており、オリジナリティのある版画では技法が内容そのものだったという。その時代の版画とは技術オリエンティドな試みが主導的なジャンルだったのだ。…

技術オリエンティドな写真

技術オリエンティドな写真というものを思い描いてみるのは有効かもしれない。カラーフィルムが出現した直後にアンドレ・ケルテスがそれを使って撮影した写真は、カラー写真という物珍しい製品が出たのでとにかく使ってみたくて撮ったように見える。あらかじ…

写真は対象の再現である。しかし対象の代行ではない。必ずしも。 われわれが写真を見るという事態から付帯物を剥いでいったときに最後に残るものを考えてみる。 カメラとレンズによって撮影された写真は、一般に「何かの写真」としてしかありえない。特定の…

前回、ピンホールカメラの視野が狭いと記述したことについての補足。 ピンホールカメラは広い画角の結像を映し出すことができるから、写真が発明されるずっと以前、1550年にジロラモ・カルダーノが両凸レンズを用いてカメラ・オブスキュラの投影像を明るくす…

ピンホールカメラによる写真であると説明すると、たびたびカメラ・オブスキュラに話がおよぶ。 カメラ・オブスキュラの原型とは、部屋全体を暗くした仕掛であったとされている。遮光した箱をつくってその一面をすりガラスにしたのではなく、真っ暗な部屋の壁…

やった! 朝方曇っていたが次第に晴れてきて、昼過ぎの現時点では低く雲があるもののヌケのいい空。何とかなるか。最大の難関は許可が下りるかどうかだが。 発汗してカゼを撃退したつもりがまだいがらっぽい。出がけに電話が来たり上を書いたりしてたら出た…

写真とは選択である、という常套句がある。 写真をやっていると実に多くの判断をそのつど行っている。それを選択と捉えることも可能であり、そう見るのなら、いくつかの選択肢の中からいずれかを選ぶという局面は確かに多い。けれどもそれは人の生全部がつね…

光を読む、露出を読む、といった言いまわしは許容されるのか。光とは読むことのできる対象なのか。この場合の「読む」とは、結果が出るのに先んじてその具合を予測する、ということを意味する。時間が経過して太陽が動いていったらどのように状態が変化する…

写真の終わりを嘆く前に思い出すべきこと

写真が終わるとか死ぬだとか、もう少し批評がまともに機能していると思われる絵画やら映画やら文芸といったジャンルではわれわれの出生前から幾度となく語られてきたような話を飽きもせず繰り返している人びとは、一度版画のことを思いおこしてみるといい。…

道具を作るということ

何もないところからものを生みだしているとかクリエイティヴだなどという意識はいつもまったくない。写真を撮影しているときには何ものかを作っているとは思わない。すでにあるものを探しているだけでしかない。引き伸ばしでも似たようなもの。しかしカメラ…

写真とは世界を矩形に切りとること。これまで幾度となく聞かされてきたこの紋切り型の言いまわしは、画面内に入れこむ要素を制御することに写真撮影の勘どころがあると謳っているのだろう。フレームの内と外にあふれる多様な部分を画面内に収めるか追いだす…

一昨日の続き。 知性には2つのタイプがある。アーカイヴ型とコンピュータ型と。一方では知識の蓄積量と系統立った整理、検索や類縁化の性能が求められ、もう一方では論理的演算の速度と正確さが評価される。むろんいずれも他方の性格を有しているが、モデル…

H-2.5F-1.2 H側にて8時過ぎ頃開始。いざ組み立てようとしたらエボニーSV45のバックが途中でつかえて動かない。無理矢理繰り出すが動きがぎこちなく、引き出してやらないとまっすぐ動かない。どうやら繰り出しギアの左右いずれかがゆるんでいるようだ。しばら…

プリント14枚。 9年前に唱えていたこと。写真とは何か。それは画像内容や撮影方法によって規定されるものではない。写真とは最終提示媒体上での感光作用によって形成された画像のことである。従ってグラビアやオフセットのみならずダイトランスファーやコロ…

午後より曇。小田原。初。 ここに新幹線を止める必要があるのだろうか。大宮や赤羽や川崎はもちろん藤沢大船より小規模に見える。観光地であるためか、かつて境界であった名残か。横浜駅を通らないからここで止める意味もあるのだろう。さすがにここまでくる…

写真はつまらない。 近年見るにたるものが絶無であるといった程度の話ではない。つまらなくない写真というものはこれまでついぞなかったし、今後も一切ない、ということを述べているのだ。 ならばつまらなくないものとは何か。 写真に再現されるべき眼前の現…